2017/03/30

セノグラフィーってなに?<スケッチ散歩4>

<旧島津公爵邸スケッチ散歩>

春というには、まだ寒い日。
時折晴れ間が覗く。
五反田のごみごみとした喧噪が嘘のようだ。通称ソニー通りを渡り島津山の方へ。
300mくらい緩やかな坂道を登る。
今はもうソニーの本社や町工場はほとんど移ってしまい、高層マンションや巨大オフィスビルがひしめく。

私たちの工房、六尺堂があるエリアだけが高度経済成長を牽引した五反田の工場街の気配を残すのみとなった。そこから歩いて5分ちょっと。
昭和のその時代よりももっと前、大正初期、明治の時代の気配を色濃く残したそんなエアースポット。
旧島津公爵邸を訪ねた。

<ジョサイア コンドル>
旧島津公爵邸。現在は清泉女子大学の本館として使用されている建物。
設計はジョサイアコンドル(1)

(1)ジョサイア・コンドル(1852-1920)(Wikipedia)
お雇い外国人として来日し東京大学の前身、工部大学校の教授として日本の近代建築の基礎を位置づけたイギリスの建築家だ。
弟子に東京駅を設計した辰野金吾や片山東熊がいる。

今回のこのスケッチ散歩は、清泉女子大学、英文学の研究者、K先生のご協力を得て実現した。

<校門前にて>
春の日の昼下がり。背後にこんもりとした大きな樹木生い茂る丘を擁した校門前に集合する。総勢12名ほど。
舞台美術を勉強している学生や、演劇制作者、背景画家、俳優とNPO法人SAIのメンバー。
女子大とは不釣合いなメンツがバツ悪そうにそわそわと集まる。
守衛室前を通り学内へ、ちゃんとパスをもらう。なんだか一安心。

<導入>
今は清泉女子大学として使われているが、既に守衛室からの急な坂道のアプローチが旧島津邸の気配を伝えてくる。
現在の守衛室の反対側には、昔日の門番小屋とおぼしき建物が残り、その脇には今は使われてない井戸がある。なんだか空気の密度が変わっていく。

五反田・目黒川の河岸段丘のハケ地に位置する島津山。井戸があるということは此処には湧水が出ていたのかも知れない。実際同じような地理的位置関係にある池田山(旧岡山池田藩下屋敷跡)には、見事な池があり風水的には江戸城の龍穴の位置にあたるという。

「昔のお屋敷は、門から建物が見えないように配置されていたようですね。」
とK先生が解説してくれる。

そういえば、同じコンドルの設計で、城南五山#の一画を占める品川八ツ山の三菱開東閣も、鬱蒼とした樹木に囲われ門からは中の様子が伺えない。

#城南五山とは?
江戸時代、風光明媚な地として知られた、高輪台から品川御殿山までの丘陵地の総称。徳川家光の鷹狩りのための御殿があった御殿山をはじめ、諸大名の下屋敷があった。海を見下ろす段丘沿いの高台に、明治以降、財閥や貴族が邸宅を構えた。花房山、池田山、島津山、八ツ山、御殿山で城南五山と呼ばれるようになる。城南五山という呼称は、江戸時代にはなく近代以降に通称されうようになったらしい。江戸城を中心としてみたとき、愛宕山、高輪台等東側の高台は地形的にみても京都五山の東山のイメージが投影されている。江戸時代の浮世絵には品川御殿山が、江戸五山の一つとして描かれている。(2)


(2)勝川春潮 『江都五山 御殿山』

<坂とカーブを伴った動的なシークエンス>
校門を入るとすぐにかなり急な坂道を登る。左手上、丘の上にある大木が影を作っている。その坂道を登りきるあたり、左カーブの先にお屋敷本館の建物が現れてくる。
背の高い樹木がプロセニアムのように額縁を作っている。
傾斜とカーブ、3次元的な身体感覚を伴った視覚。期待を高める動的で劇的なシークエンスのデザインだ。(3)
(3)樹木により縁取られた旧島津邸本館(ITARUS)

凄いねー!うわっー!うーん!
連れだって歩く口々に感嘆の声があがる。坂を登り切り回りこむようにして正面玄関の前へ。
しばし佇む。

<ファサード>
これがジョサイア コンドル設計の旧島津公爵邸か、、。

私がまずエントランス外観で気になった点は以下。
・重厚だが、軽やかで品のあるデザイン。
・灰色の石と若干クリーム色がかったレンガが華やかな印象を与える。
・派手すぎず、美しい幾何学的な線で構成されたルネサンス様式のデザイン。(4)
(4)旧島津邸エントランス側ファサード(ITARUS)
1Fの窓のアーチは楕円ではなく正円で、その上2Fと屋根のペディメントは三角形。バロック時代が好んだ楕円や、ねじれや歪みのない、シンプルで品格のある単純な図形。プラトン立体を用いたルネサンス特有の形だ。

大きなシルエットとしては左右対称に作られたファサード(正面の顔)だが、右側は内に階段室を控え、大きなステンドグラスがはめこまれている。(5)
(5)正面右手のステンドグラスの窓(内側に階段室)(ITARUS)
左側は、一階の窓フレームは正円、2Fの窓フレームは三角形となっておりルネサンスの時代、古代ローマ、ギリシャへの憧憬と研究が達成した建築の歴史的なオーダーに則ったデザインになっている。
(6)
(6)正面左手の窓の縁取り装飾(ITARUS)

この窓のデザインに、日本人の擬洋風建築とは異なりトラディショナルな建築の技法を熟知していたコンドルならではのセンスが感じられる。

<ダブルオーダーの柱>
正面車寄せのポーチは上にバルコニーを載せた軽やかだが品格のあるデザイン。
さらに、シンプルなドーリア式(トスカーナ式)の付け柱は角柱に半円をなして取り付き、もう一本は独立して立つ二本の連続する柱になっている。(7)
(7)エントランスポーチの2重の柱

後ほど見ることになる庭側のバルコニーでも採用しているダブルオーダー#の美しいデザインだ。

#ダブル・オーダーとは?
ルネサンスの時代、ミケランジェロが好んだデザインである。構造的には1本の柱でも済むが、2連の柱を用いてファサードの輪郭を際立たせる。(8)


(8)ミケランジェロ サン・ロレンツオ聖堂ファサード案
繰り返すモチーフが空間にリズムをもたらすと共に、独立した円柱が彫刻のように軽やかに柱のシルエットを浮き立たせる。
また、ミケランジェロはジャイアントオーダーという、階層を貫く一本の柱のデザインも好んで使用している。共に空間にリズムとアクセントをもたらす。(9)

(9)ミケランジェロ カピトリノー広場(ローマ)


<島津邸の地形>
話しを旧島津邸に戻そう。
まだ、建物の中に入ってさえいない。
旧島津邸。
もと、伊達藩の下屋敷があった目黒川の河岸段丘、高輪台地の一画に位置している。
古地図と照らし合わせると屋敷があるエリアが見事に重なる。(10)
(10)江戸古地図との比較


地形図での島津山の位置。高輪台地と目黒川が作る南斜面、海への眺望の開けた場所だということがわかる。(11)

(11)地形図にみる島津山の位置

建造当初は居室から品川の海が望めたという。現在は品川駅のニューシティのビル群が連なった壁のように遠くにみえている。

島津忠重の袖ヶ崎本邸としてコンドルが設計。何度かの設計変更を受けて大正5年(1916)に竣工。コンドルが得意としたコロニアルスタイルのベランダを持ち、軽やかで品格のあるルネサンス様式の建築といわれている。

この近くには、コンドル設計の三菱開東閣や三井迎賓館が残っている。
(共に一般には開放されていない。)

<高輪台地のコンドル建築>
この3つの共通点を考えてみた。どれも高輪台地、地盤の安定した山の手の地にある。だからだろうか、関東大震災でビクともせず、往時の姿を保っている。
また、どれも江戸時代から風光明媚な地として有名だった高輪、品川の地にあり、遠く千葉房総半島と三浦半島を両袖に見立てた江戸前の美しい袖ヶ浦(江戸湾の昔の呼び名)の景色を眺める事が出来たようだ。(11)

(11)御殿山花見の図にみる江戸湾の美しい眺望
どの建物にも美しいバルコニーが取り付いているのは、コロニアルスタイルという事以上に、美しい風景との関係で建物を捉えていた結果ではないだろうか。(12)(13)

(12)三井倶楽部迎賓館のバルコニー
(13)三菱開東閣のバルコニー

<エアーポケットのような庭>
そわそわとうろうろとする私たちに戸惑うK先生にいざなわれ、バルコニーの方から建物の中へ。と、入る前に今度は目の前に広がる庭園に見惚れる。

もとは、大きな池があったという。
それを埋めて中庭が作られた。角には伊達藩の和風庭園であった名残りとおぼしき灯篭や石組みが残されている。

ぼーっと佇んでいると、時間と空間の間隔がおかしくなってくる。
すぐ下には五反田の喧騒が広がっているはずなのに、この丘の上には静かな時間が流れている。
タイムスリップした感覚。

江戸の気配を消さず、その時空に重ねるように大正時代に建てられた洋館。ここだけ時間が止まったままのような時空のスポット。
そんな気配を抱きつつ洋館の中へ。

<やっと建物の中へ>
最初に案内して頂いたのは、現在の大学の先生たちの会議室。昔の主人の書斎の部屋である。(配置図)
(配置図)清泉女子大学HPより


ここでも入った瞬間に感嘆の声があがる。
ファーストインプレッションが大事なのだ。
感覚を開いて対象物を体験する。
住んで生活していた人々の動きや気配を想像しながら。

<書斎>
天井が高い。扉もでかい。そしてその扉枠のデザインの立派な事、、。ため息がでる。
暖炉も素敵だ。内装の彫刻も細やかでシャープだ。
大変な建築の中に入ってしまった!と感じる。
失礼だか、なんちゃって洋風の建築と比べられない、品格がある、、。と感じる。
いきなりヨーロッパに来たみたいだ。
五反田の繁華街の裏手に本物のヨーロッパの時空が隠れていたとは。

<いざスケッチへ>
この部屋に荷物を置き、いよいよスケッチ散歩へ。
まず、参加者に簡単なコンドルの紹介と東京で見られるコンドル建築の写真や、ネットから探してきたこの建物の初期設計図のドローイングなどを渡す。

K先生の案内で建物の中を一回りしてから、気になる箇所をスケッチしていく。

書斎から続く次の間へ。ドアが三箇所にあり、玄関ホールと隣の部屋へと三方向に続いて移動できる、いわゆるスイートルームの構成になっている。
これも、ヨーロッパの宮殿のようなつくりだ。

次に現在はチャペルとなっている旧食堂へ。広々と吹き抜けている階段室。2Fに上がり子供部屋、公爵夫人の居室、ベランダへ。
何度もため息が漏れる。
しかし、学校として文化財を大切にしながら非常に綺麗に使用していることにも感動する。やはり建物は大事に使われている時に輝いて見える。


<スケッチ散歩とは?>
ここでスケッチ散歩の意図を再確認したい、NPO法人S.A.I.では不定期だがスケッチ散歩を開催している。
今までに神奈川県の文化課と組んで行った江ノ島や丹沢大山でのスケッチ散歩。あるいは、品川宿や王子飛鳥山など。歴史的な遺産を中心に街を歩きながら、気になったもの面白いと思うことを素早くスケッチしていく。もちろん写真でも良い、がやはり短い時間だがスケッチすることにより対象物が語り出す。

 コルビジェのもとで学び、また考現学の今和次郎の流れを汲む建築家・吉阪隆正がこんな言葉を残している。(引用)

『写真では、相互の寸法的なものをより正確に記録し、撮影者が心にとどめなかったものまで記録してしまう便利さはある。だが一つ一つ手で写していく間の対象物との心の対話はスケッチには及ばない。その対話の中から現に今、目の前にしている対象物は、そのもの自体をこえてさまざまな話題を展開するのである。・・・』
吉坂隆正 今和次郎集4『住居論』解説より

私たち、スケッチ散歩の対象はなんでも良い。上手い下手も関係ない。
一枚仕上げるのにあまり時間はかけない。重要な言葉ならメモを取るように、気になった風景や状況を記述する。

建築から、裏道のゴミ箱、山並みや風景の音や人の会話まで。
パフォーミングアート、セノグラフィーの視点で空間、時間を捉えてみる。
江ノ島でスケッチ散歩を開催した時、参加した若いダンサーはずっと通り過ぎる観光客の会話をスケッチしていた。

例えば、高台から江ノ島神社を見下ろしながらのあるカップルの会話。
男「うーん、ザ ・ニッポンって感じだね。」
女「うん、そうだね。」

日常の何気ない風景や、ちょっとした空間に潜む面白いと思うモノやコトを集めてみる。
パフォーミングアートの視点で。
路上観察学とも似ているが、重要なのは自分の目で見て体験する事。
スケッチするちょっとの時間で対象物と対話する事だ。

建物の場合は特に、スケッチすることは設計者の線をトレースしていく事であり、難しく美しいモノには、現場の職人さんの苦労と誇りが見えてくる。

今回のスケッチの時間は1時間半くらい。
一枚20分から30分くらいで描いていく。
時間がかかる場合は、まず大枠を捉え後で写真などを頼りに詳細を描きこむ。

<スケッチ散歩の成果>
以下、今回のスケッチ散歩で私が描いたもののいくつか。

まずバルコニーのカーブ。
緩やかなカーブが重なりその曲線に対し、床の白黒の45度振ったタイルの貼りわけが、モダンな印象を与える。世界的にはアールデコが流行する少し前の建築だが、コンドルが世界の潮流を意識していた感がある。(14)
(14)2Fバルコニーの優美な曲線(ITARUS)

次に裏階段の手摺りのディテール(15)
(15)裏階段手すりのディテール(ITARUS)
この手摺りも、初めてみるデザインで、シャープで洗練されていると感じて描いてみたが、描いていて気になったのは手摺りの支柱の上の4隅のカットが、なんだかアールデコの雰囲気を持っていると思ったこと。
普段あまり客人の目に触れないところだと思うが、ディテールまで丁寧にデザインされている。

バルコニーの手摺りと柱のディテール(16)
(16)バルコニー手すりのディテール(ITARUS)
柔らかいボーリングのピンのような形をした手すりの柱と雨水を流すため若干傾斜した石板の手すり。採寸してみる。今日はなんだか手すりばかり描いている。


そして中庭から見たバルコニー側の建物全景(17)
(17)中庭からみたバルコニー側の建物全景(ITARUS)
描いている時、ヨーロッパにいる感覚に襲われた。
特にこの外観を描いていたとき。
文化庁の芸術家在外研修員として滞在したベネチアで、毎日一枚はスケッチしようと描いていた感覚をふと思い出した。

細部まで練られたデザイン、その細部が積み重なりながら大きな外観の輪郭と呼応する。
建築はこうである、という信念と伝統のモチーフの見事なコラージュ。
スケッチしていく手がコンドルの思考と手の動きの痕跡を感じ始める。

このスケッチ散歩は上手い下手ではなく、重要なのは描く事により、なにを感じて体験したかだ。手がなにに反応し記憶したかなのだ。

最後にみんなが描いた絵を見ながらフィードバックの時間を持つ。
人により、本当に観ているポイントは違うのだということを実感する。(18)
(18)フィードバックで並べたみんなのスケッチ(ITARUS)

例えば、使用人が使ったであろう裏階段の巾木の曲線を描いていた人もいる。とても優しい曲線だ。私は最初気づかなかったので、もう一度見に行き写真を撮った。(19)
(19)階段の巾木の柔らかな曲線(ITARUS)

フィードバックの後、みんなが発見した面白い箇所をもう一度見にいく時間を持ってみた。自分1人では、発見できなかった面白い事が見えてくる。これもスケッチ散歩の面白みのひとつ。


『洋館のハイライトは、階段ホールと食堂ですね。』と、数々の洋館写真を撮ってきた背景画家さんが言う。
なぜなら、そこは一番来賓の目に触れるところだから。(20)
(20)エントランスホール・階段室(ITARUS)


十字架のモチーフを発見した学生もいた。
清泉女子大学はクリスチャンの大学だが、実はこれは島津家の家紋らしい。(21)
(21)エントランスのステンドグラス 島津家の家紋(ITARUS)

暖炉のレンガに文字が。また食堂の暖炉には島津家の家紋の十字架があった。(22)
(22)食堂の暖炉にみえる面白い文様と家紋(ITARUS)


<柔らかい曲線たち>
書斎の真上が夫人室なのだが、その部屋にこもって描いていた人はこの部屋が優しい曲線に溢れているという。(23)
(23)伯爵夫人室の曲線の窓と金色のカーテンボックス(ITARUS)
天井のモールディングに丸く縁どられたライン。天球のイメージだろうか。
暖炉の柔らかい線。また、この部屋のカーテンボックスだけが金色で装飾されている。
K先生の話しでは、皇后が泊まった事があるという。

<職人の意地>
極め付けは、バルコニーの柔らかい曲線に沿った夫人室の曲面ガラスと窓枠だろう。(24)
(24)バルコニーの曲線(曲面)のガラス(ITARUS)

この当時、ガラスを曲線につくりだす技術があったのだろうか?
驚愕する。

工房からこんな近くにあるのに、一度も足を踏み入れたことが無かった丘の上でのひと時。とても有意義な時間を過ごさせていただいた。

春の陽も暮れはじめ、ジョサイア コンドルの建築をあとにする。
最後にバルコニー側からもう一度建物を観る。(25)
(25)旧島津邸バルコニー側(ITARUS)

20173月25日の五反田に下りてくる。
なんだか狐につままれたような、楽園にいたような、、。
そんな至福の時を過ごした。


2017/03/29

セノグラフィーってなに?<スケッチ散歩3>

<犬山城下スケッチ散歩>

2016年暮れ ダンサー・平山素子の公演の為、愛知県扶桑市民会館を訪れた。
その折り、ホテルが会館のそばにないので近くの犬山に宿泊した。
朝早く。現場に向かう前の時間、ふと思い犬山城下を歩いてみた。
その短い記録。


山あいの河岸段丘の上に
その街は拡がっている。
頭一つ出た小山に佇む小さな城。

城下の本町通りは真っ直ぐと
南へ緩やかに下りながら、
ずっと、伸びている。
遠くに青い山並み。

小さな城下街、犬山。
気品と積み重なった長い時間がこの街の気配を作っている。

寺町から本町通りへ
城を背にして、古い呉服屋、旧磯部家を表通りからスケッチする。
間口はこじんまりとしているが、一歩建物の中に踏み入ると
江戸の小宇宙が拡がる。
細い敷地は闇を内包しながら奥の気配をつくっている。その闇の向こう光の中庭に誘われてさらに奥へと。
簡素な数寄屋の庵に漆喰壁の蔵が2~3棟、程よい間を保ち、組子のように配置されている。
江戸の小宇宙。
この家の中庭には凛とした、しかし緩やかな江戸の時間が今も流れている。(スケッチ)

犬山城下 旧磯部家(ITARUS)

城を背に
本町、寺町
冬散歩

訪ね歩く
寺町、本町
冬の城

冬城下
徒然歩く
朝の人

下手な句を作ってみる。句をつくるというより、空間のイメージ、体験したイメージを短い言葉にしたくなる。

2016年11月27日朝
冬の気配が街を
おおいはじめる。

冬の朝
雨の城下に
彷徨えり






2017/03/21

セノグラフィーってなに?<歴史5>

『アリアドネの糸と迷宮 あるいは、コレオグラフィーとセノグラフィーの関係』


<その2>で、神殿と迷宮とコーラ(最初のパフォーミングアートの場)という3つの関係で、セノグラフィーの原初を位置づけたが、今回は迷宮の考察を通して、ミノタウロスを倒し迷宮から帰還したテセウスを導いた『アリアドネの糸』『鶴の舞踏』からコレオグラフィーとセノグラフィーの関係について考えてみたい。

<その1>で、踊り、演じる場=コーラのデザインこそが原初のセノグラフィーであり、その場に現象として現れる身振り=ダンスが、コレイア(輪舞)であり、その振り付けがコレオグラフイーであると書いたように、迷宮とアリアドネの糸にもその関係が当てはめられないだろうか?という仮説だ。

仮説はこうである。”ミノタウルス自体が迷宮だった”のではないか?

迷宮に踏み込むと奥が深すぎてそれこそ迷宮入りしてしまうが、ここはセノグラフィーについて考える場。様々な迷宮の歴史的解釈があるが、ここでは特にパフォーミングアートに関わった迷宮の解釈を探っていきたい。


<アリアドネの糸>
まず、アリアドネの糸について。
こみいったミノタウロスの迷宮神話をもう一度おさらいしよう。

半人半獣のミノタウロスを閉じ込めるための迷宮をつくったのは、造物主ダイダロス。そして迷宮を読み解く方法として糸玉を使えとクレタの王女アリアドネに発案したのもダイダロスとされている。そのアリアドネの糸を使い、迷宮の入り口に片方を結び、ミノタウロスが潜む迷宮の中心へとおもむき、ミノタウロスを倒し帰還したのがギリシャの英雄テセウス。

そして、ダイダロスはアリアドネの為に舞踏の場をつくったともされている。
迷宮ーアリアドネの糸ーアリアドネの為の舞踏の場。全てにダイダロスが関わっている。
演出家のように、、。いやこの場合はセノグラファーのように、だろう。

では、アリアドネの糸が機能する為に迷宮がどのような形態をしていたのか?


<クレタ型迷宮図>
クレタ型迷宮図とはこうだ。(1)
(1)クレタ型迷宮図(Wikipedia)

これは普段私たちが考えるような複雑に交錯する道をもった”迷路”とはちょっと異なり、以下のルールを持っているという。

・通路は交差しない。
・一本道であり、道の選択肢はない。
迷宮内には余さず通路が通され、迷宮を抜けようとすればその内部空間をすべて通るこ
 とになる。
・中心のそばを繰り返し通る。
・中心から脱出する際、行きと同じ道を再び通らなければならない。

確かに普段私たちが考える迷路とは大きく違う。迷宮を通る通路は一筆書きで出来ている。迷いそうにない。アリアドネの糸は必要だったのだろうか?この迷宮を辿るために使用されたアリアドネの糸とはなんであったのか?


<迷宮舞踏説>
迷宮の研究者である和泉 雅人氏が『迷宮表象原理』において、
”迷宮は実体的な構造物ではなく、迷宮とは迷宮図にほかならず、その迷宮図とは迷宮状の舞踏のために描かれたステップ図(舞踏譜)にほかならない。”
という説を支持している。

”その迷宮舞踏説の有力な根拠が、迷宮神話圏において、テセウスがデロス島で自分が凌いで来た迷宮を記憶に呼び起こして、迷宮の周回路をなぞる迷宮舞踏(いわゆる『鶴の舞踏』)を踊ったという物語素が存在することである。さらにChoros(輪舞あるいは舞踏場)の模様が描かれたアキレウスの盾の描写がホメロス中に見られることも重要な根拠の一つとされている。”
『迷宮表象原理』より

また、中島 和歌子氏の『迷宮(Labyrinth)図像群に関する一考察』では以下のような考察もある。
”糸というものについて、以下では舞踏との関係性も紹介しておきたい。
テセウスが迷宮から帰還を果たすくだりは通過儀礼として従来語られているが、ケレーニイは『舞踏化された迷宮』と述べている通り、迷宮を、建造物であるというよりは特定の舞踏の形状であるとみなしている。ケレーニイはホメロスの『イーリアス』の記述などを参照しつつ、綱を使って踊る輪舞の列が迷宮状に方向転換しつつ中心を目指し(死への道)、中心から逆光して戻っていく(再生の道)という鶴舞踏(geranos)を迷宮図像の模倣であるとしたうえで『踊り手たちはいわばアリアドネーの糸を手にしているのだ』と述べている。”
『迷宮(Labyrinth)図像群に関する一考察』より


図像学や神話を研究している人からすると門外漢の私はとんちんかんで申し訳ないが、
セノグラフィーの原初を考える時、どうしても神話や哲学の世界とは切り離せない。
今回も難しい世界に踏み込まざるおえないのだが、この記述に出会ったときちょっと謎が解けた気がした。
ダイダロスが設計した迷宮と舞踏場の接点がアリアドネの糸を介して見いだせるからだ。


<迷宮と舞踏の接点>
さきの和泉氏はこのような舞踏説に依拠するなら、”迷宮は完全に実在性や質量や歴史性の呪縛から解き放たれ、純粋に神話的観念存在へと脱皮することが可能になる。そしてこの観念的存在に最小限の実体を与えられたのが迷宮図である”と考察されるが、
私の勝手なイメージはこうだ。
迷宮は神話的観念ではなく、『舞踏の為のセノグラフィー』ではなかったか?

<ネガとしての迷宮とポジとしてのアリアドネの糸>
迷宮の読み解きを可能にした、あるいはそのルートを浮き彫りにしたのがアリアドネの糸であったとすると、迷宮を地(ネガ)、アリアドネの糸を図(ポジ)と設定することができないか。
舞踏の為の場と演者の関係だ。(2)
(2)クレタ型迷宮図の例(円周の数が通常より一つ少ない)(ITARUS)


この絵は迷宮図のみ。下の絵はその間を通るアリアドネの糸のライン。(3) 
(3)アリアドネの糸のライン(ITARUS)
これが(2)の迷宮のラインをネガとしたときのポジのラインにあたる。
そして次が2つのラインを重ねたもの。(4)
(4)迷宮のライン(ネガ)とアリアドネの糸(ポジ)を重ねた図(ITARUS)

次の回では是非迷宮図の描き方を扱いたいが、この地と図は面白い関係を持っている。
どちらも描くには基準として同じ位置に一つの正方形が必要なのだ。そして円弧の中心は正方形の4つの角とその正方形の上辺の中心から1辺の長さの1/8の長さだけズレたところに中心を持つという不思議な円弧の集まりなのだ。(5)
(5)迷宮図を描く上で必要な下書きとしての円弧のラインの重なりと基準の正方形(ITARUS)

最初に地(ネガ)である迷宮図から描いてみたが、その道であるアリアドネの糸は一本なので、明らかにクレタ型迷宮図に近いものをフリーハンドで描こうとするとこちらの方(アリアドネの糸)が主=ポジになるのだ。


<コーラとしての迷宮>
そうすると、ポジがまだ無い状態のネガである迷宮は、ジャック・デリダが語ったコーラ=「これでもなくあれでもないようにみえ、同時にこれでありかつあれであるようにみえる。」あらゆる概念的同一性を逃れ去る、場なき場とはならないだろうか。(6)
(6)点線で示されるネガとしての迷宮(ITARUS)

迷宮がコーラの一つの表象だとすると神殿vs迷宮という二項対立は、違った位相としての神殿vsコーラ(後の劇場)との関係性と重なってはこないだろうか。


<コレオグラフィーとセノグラフィー>
アリアドネの糸がコレオグラフィー(舞踏譜)であり、テセウスの動きがコレイア(輪舞)にあたる。そのコレオグラフフィー=舞踏譜とテセウスの輪舞により立ち上がってきた表象としての迷宮=コーラこそがセノグラフィーではないか。
ここにセノグラフィーとコレオグラフィーの関係が見いだせる。

鶴の舞踏の為のステップ図が迷宮図ではなく、鶴の舞踏の為の舞踏譜=コレオグラフフィーがアリアドネの糸=ポジであり、迷宮図=ネガがそのセノグラフィーなのだ。
別の言い方をすればアリアドネの糸がつくり出すコレオグラフィーは時間と関わり、そのコレオグラフィーが展開する場(コーラ)に立ち現れる迷宮というセノグラフフィーは空間と関わる。パフォーミングアートには時・空が必要だ。

場なき場=コーラに、瞬間に立ち上がる一様態としての迷宮。
迷宮を読み解きその振り付けのダンスを体験し表現したものしか、ミノタウロスに出会えず、それを克服し帰還することができない。

迷宮という『場なき場』にミノタウロスを召還できるのが、アリアドネの糸というコレオグラフィーを踊ったテセウスのコレイア(輪舞)『鶴のダンス』ではないか。
鶴のダンスを踊る事により、迷宮のラインが立ち上がってくるのだ。
アリアドネの糸というコレオグラフィー(舞踏譜)こそがネガである不可視である迷宮の設計図(セノグラフィー)をあぶり出す。


<ミノタウロス・迷宮・アリアドネの糸・テセウスの行為(鶴の舞踏)>
ミノタウロス。豊穣と破壊の両義性を持ち生と死の両側面に関わる半人半獣のキメラ。この超越的な存在と出会い対話(破壊と再生)する為に、パフォーマーとしてのテセウスに必要だったのが、舞踏譜としてのアリアドネの糸であった。
そして、そのパフォーマンスが演じられる時にのみネガとして立ち上がった、”場なき場”=コーラが迷宮であり、そのパフォーマンス行為=鶴の舞踏こそがミノタウロスを出現せしめたのではないか。

レヴィ・ストロースがいうように、芸術家の一側面であるブリコルール(器用人)は、ものと『語る』だけでなく、ものを使って『語る』。
まさに、ものを使って『語る』ダイダロスが作りだしたこの『もの』こそが、”舞踏場”であり”アリアドネの糸”であり、それにより立ち現れるネガとしての”迷宮”なのではないか。
それによって『もの』語られたのが、ミノタウロスとテセウスの神話なのではないか。

<超越的なるものとの対話を可能にするパフォーミングアート>
舞踏譜であるアリアドネの糸に沿ったテセウスの鶴の舞踏こそが、ミノタウルスへの接近とそこからの帰還を可能とする唯一の方法であった。
それは、身体、知覚を伴ったパフォーミングアートだ。
パフォーミングアートこそが、超越的なるものとの関係を可能にし、迷宮を可視化できるのだ。

参考文献
『迷宮表象原理』和泉 雅人
『迷宮(Labyrinth)図像群に関する一考察』中島 和歌子



2017/03/15

セノグラフィーってなに?<スケッチ散歩2>

<善通寺スケッチワークショップ>
2013/08/21 の記録より
善通寺境内 西門と山

真夏の午後、2日間に渡り四国学院の生徒達と、善通寺をデザインサーベイした。セノグラフィー(舞台美術)の視点で、古いお寺や道にある気配、町独特の色や匂いを探しスケッチする。スケッチからその町のデザインや成り立ち、果ては文化、歴史までを探ってみる。

<スケッチ散歩ワークショップ>
NPO法人 S.A.I.ではスケッチ散歩ワークショップを不定期であるが、色々な街で行っている。江ノ島や丹沢大山の阿夫利神社、品川宿等々。
街を歩き肌で街の雰囲気や空間を感じる、写真に撮るのもいいが、スケッチというちょっと時間のかかる行為をすることで対象物の記憶を体に刻みこむ。

<なぜスケッチなのか?>
なぜスケッチなのか、、。 20世紀の建築の巨人、ル・コルビジェの弟子であり、考現学の祖である今和次郎の流れを汲む建築家・都市計画家でもあった吉坂隆正(1)がこんな言葉を残している。
(1)建築家 吉坂 隆正
『写真では、相互の寸法的なものをより正確に記録し、撮影者が心にとどめなかったものまで記録してしまう便利さはある。だが一つ一つ手で写していく間の対象物との心の対話はスケッチには及ばな い。その対話の中から現に今、目の前にしている対象物は、そのもの自体をこえてさまざまな話題を展開するのである。・・・』
吉坂隆正今和次郎集4『住居論』解説より

日常の見慣れた町や風景をスケッチする。普段とはちょっと違った創作者の視点で捉えてみる。途端に日常の風景は様々なコトバで私たちにその魅力を語り始める。

<スケッチ散歩へ>
さあ、いざスケッチに出発。 一日目は、四国学院から歩いて10分もかからない弘法大師、空海が生まれた善通寺の境内をスケッチする。丸い輪を空中に抱いている不思議なカタチの灯籠を発見。生徒と共にデザインサーベイの肩慣らしとして、この灯籠のスケッチと採寸を行う。 勝手に善通寺灯籠と名付ける。(2)
(2)善通寺で見つけた面白い形の灯籠、採寸もしてみる(ITARUS)

セノグラフィーのスケッチは、気になった風景やモノを探しそれをスケッチする事により、 その秘密に迫るのが目的だが、空間や建築、造形物の寸法や比率をメジャーを使って実際に測り、その数的感覚を肌で捉え、立面や平面、断面として描き出すことにより、デザインし造形する力を養う意味もある。

<自然と人のワザのコラボレーション>
 善通寺の境内や参道を歩いていて気づいた事がある。参道から眺めるとお寺の遥か先に、山が見えるのだが、その重なり具合が参道のラインから見ると絶妙なのだ。(0)
(0)善通寺の参道からみた門と山並みの美しい重なり(ITARUS)

境内の西に面して建つ中門でも、やはり先程の山が 関係しているようだ。どうも山並みが一番美しく見える位置に門が築かれている。門の屋根瓦の緩やかなライン、軽やかに宙に浮いたようにデザインされた楼閣、袴の裾のような微妙なカーブのフォルムをもつ開口部。まずは細部をよく観察しながらスケッチしていく。(3)
(3)善通寺 西門(ひぐらし門)(ITARUS)
見越しの松が見事にフレームをつくる

しかし、この門の魅力はどうもそれだけではない。クローズアップした視点を今度は広げてみる。大きく上空から枝を降ろしている見越しの松とともに、この門は山水画のように美しく重なった山並みのラインに見事なアクセントを与えている。スケッチに描くと、自然が 作り出した遠くの山並みと人の手により植えられ造形された二本の松と門が、美しい関係を作り出しているのが良くわかる。(4)
(4)西門と山のカタチが美しく重なる(ITARUS)

自然と人のワザの見事なコラボレーション。環境や地形を読み解き、大地と人との関わりを感覚全てを使って発想した古人の知の在り方に驚かずにはいられない。空海のように言葉の根底にある深い感覚を伴いながら自然と対話する事が出来た先人たちの術を学びたいと思う。
しばし、暑さの中でスケッチする。言葉にならない妄想が空間にさらに広がっていく。
空海が子供の頃に走り回ったであろうこの讃岐平野。空海の先祖である佐伯氏の住居があった善通寺周辺。ここはどうもこの山たちとの関係で定められ、造られたのではないだろうか。太陽の方角と海と山の位置、風の道や天からの雨と大地の地味。ゲニウス・ロキ(地霊)と深い関わりを持って捉えられていた日本の原風景を想う。

<ワークショップ2日目>
二日目は、駅の近く、門前町である善通寺の碁盤の目を不思議と斜めに切り取る細い道を散策する。地元に詳しい生徒はこの辺りに古い街並みが残っているはずだという。いざ散策開始。
街並みを見て始めはそんなに古くはないなと高を括っていたが、歩いているうちになんとなく肌で感じてくる不思議な気配がある。道の絶妙な幅や、緩やかなうねり、見え隠れする街並みや田園と遠くの山並みのおもしろい関係。歩いていると時々、山水画のように見事な近景、中景、遠景をなす景色が現れては消える。

<斜めに走る道>
この斜めの道はどうもとても古そうだ。なぜか?大きくまっすぐな道に所々切り取られてい
るが、確かに繋がっているからだ。まっすぐな道の方が古ければわざわざこのような斜めの道は作らない。
駅前にある大きな地図で確認する。この道は、どうやら昨日スケッチした善通寺のランド マークとなる山に平行に走っている。地図から目を上げ遠く山の配置を確認する。開けた田園の向こうに善通寺の伽藍配置と関係していたポッコリとした3つの山が奇麗に並んでみえる。
そしてもう一度地図をみる。次に気になったのは、地図上に散見される溜め池の配置だ。隣まちの池のあたりから丸亀方面の池までを、この道が繋いでいるのがわかる。この斜めの道と平行に走る何本かの切れ切れのミミズのような道も、いにしえの人が歩いた痕跡のように地図上に散見される。

<水路と山並み>
生徒がスケッチした水路を見た時にさらに気づく。この道はどうもうねるように走る水路の流れとも平行のようだ。水の少ない讃岐では、古来溜め池が多く造られてきた。空海が作った満濃池は、特に有名だ。この斜めの道は、讃岐の動脈となる水の道なのではないか。
山並みに平行に走り、平野に豊かさをもたらす水を湛えた池を繋ぐ農耕文化の道。
讃岐平野に遺された歴史的な素晴らしい遺産ではないか。(5)
(5)山並みと水路と道と池の関係に注目

善通寺の寺の軸線の基準を創り出している山。それに沿い、池を繋ぐように走る斜めの古 道、讃岐の水の道。途中、この細い道がお遍路道であるというサインも見つけた。善通寺の美しい自然の背後にある重層した風土と文化。古来から自然と深い関わりをもっていた人々の日々の営みの美しいシーン=セノグラフィーがスケッチする手と対象物の間に、イメージとなって浮かび上がってくる。
夏の午後、スケッチ散歩をしながら、誘われるように分け入ったこの古道には、さらに様々なセノグラフィーが遺されていた。

<忘れさられた一角>
善通寺の駅の近く、この細く斜めに走る道がさらにうねるように曲がっていくあたり、そのカーブに沿って建てられた、家屋よりも立派な築地塀がひと際目をひく。漆喰の白の上に落ちる隣家の影のカーブと呼応して、おもしろい奥行きと陰影を造り出している。同じ視点で描いていた生徒のスケッチには猫や人影、植物が目につくのに、私のスケッチにはそれが抜け落ちている。改めて同じものを観ているはずの個人の視点の違いを、スケッチは写真とは異なり見事に語るのだなあ、と感じる。(6)
(6)曲線を描く築地塀(ITARUS)

その先には、見上げるとひっそりと忘れられたように佇む木造3階立、突き出た屋根に無数のアンテナが立つ蠱惑的なバルコニーをもつ昭和初期の建物が現れる。名前は駅前荘。もう誰も住んでいないようだ。(8)
(8)細い曲線の路地の奥にある木造3階立ての駅前荘(ITARUS)

狭い路地の空隙には忘れられた草叢の細いドブの先に、深緑色の小さな階段がのぞいてる。 水と緑と光のコントラストが、忘れられた場所にノスタルジックな魅力を与えている。 一人の生徒が熱心にこれをスケッチしていた。(9)
(9)細い路地の隙間、忘れられた昭和の気配(ITARUS)

逃げ場の無い、瀬戸内の夏の日差し。スケッチする身体をじりじりと焦がしていく。 細くうねる讃岐の水の道に導かれさらに奥へ。少し開けたあたり、古い農家を発見。農家の美しい屋根の輪郭に切り取られ、田んぼの端がみえる。その先には水を湛え青々とした稲が風に揺れる田園が遠くまで広がっている。そのさらに遠く、遠景として善通寺の山並みが見える。それらを背にした農家の黒い陰翳のある瓦屋根に、真夏の陽炎がゆれていた。(10)
(10)古民家と遠くに讃岐平野と山並み(ITARUS)

2013年8月6日、午後3時をまわった辺り。蝉時雨、真夏の讃岐平野。善通寺のスケッチワー クショップで発見した美しいセノグラフィー。