2018/04/08

セノグラフィーってなに?<歴史8>



『古代ギリシャのシーニックデザイン3』


<古代遠近法>

今回は古代ギリシャ時代にすでにあったとされる絵画技法『遠近法』について考えてみたい。
前回こんな文章を引用した。

ウイトルウイウス『建築書』より

『〜実に、まずアテネではアガサルカスがアイスキュロスの指示に従って悲劇の舞台をつくり、それに関する覚書を残しました。それに動かされてデモクリトスとアナクサゴラスも同じ事項、すなわち不確かなものから確かな像が舞台の背景画の中に建物の外観を与え、凹凸のない平らな面に描かれたものが、あるものは引っ込みあるものは突出して見えるためには、ある場所が中心と定められた場合、描線は自然の理に従って眼の矢線と放射線の延長にどんなふうに対応すべきであるかについて書き記しました。 』


デモクリトスやアナクサゴラスが書き記した事は、平面の絵画を立体的にみせるための技法についてであり『Making the Scene』ではボスコレアーレやポンペイといった古代ローマの遺跡の壁画に、1500年後のルネサンス時代に発明された遠近法とは異なる『古代遠近法』の技術を見ている。(1)



(1)ボスコレアーレのvillaの壁画から
(消失点が垂中線上で何点かにまたがっている)(Making the Scene)

<古代遠近法とはなにか?>
ルネサンスの時代に発明された遠近法では消失点は1点である。光学的な暗箱(カメラ  オブ スクーラ)により壁面に投影された像は、ピンホールカメラで作り出された像と同じく、その消失点は一点に収束する。この現象を幾何学的に分析したのがルネサンスの遠近法だ。

ルネサンスに発明された遠近法の視覚的で幾何学的なルールはセノグラフィーの表現にとって、今も重要なルールとなっている。言い方を変えればこの視覚的な見方が我々の発想を未だに縛っているとも言える。その意味ではプロセニアムアーチという、いわば額縁のフレームの中の絵を作るという舞台美術の1つの表現形態は、ルネサンスにその始まりを持っている。詳細はルネサンスの回にまた見ていきたい。


ルネサンスの遠近法の消失点が一点であるのに対し、古代遠近法のそれは一点には収束しない。ボスコレアーレの壁画の透視線(オカルトライン)を見てみるとわかるようにその消失点は垂中線上で何点かにまたがっている。消失”点”が縦に伸びて消失”線”になっているのだ。

よくルネサンスの遠近法は科学的かつ数学的であり、古代遠近法はまだそれに到達していなかったといわれるが果たして本当にそうだったのだろうか?

ここでは、古代遠近法がどのように“見ため”をコントロールしたかを考えたい。

以下は遠近法に関する『Making the scene』からのもう一枚の絵と解説。(2)
(2)左①が古代遠近法の手法、右②がルネサンス遠近法に基づく手法での見かけのスクリーン。
⓵の古代遠近法では見かけのスクリーンが魚眼レンズのように湾曲している。(Making the scene)

以下『Making the scene』より引用

『そしてギリシャの作品のコピーであると考えられているボスコレアーレとポンペイの壁画の研究では、古代人は遠近法の方法を持っていたが彼らの方法はルネサンスのそれとは異なっていたことがわかる。

古代には図面の上部と下部はカーブしていた。(上図①)

そして それは2つの目が空間を見る方法を模倣している。平面図上で開発されたルネサンスの方法は、空間を見る1つの目に擬態している。古代の方法の結果は、中心の見た目がサイドのそれよりも高くなるという画像であった。サイドよりも中心を重要視したものだと言われている。


現代の目にとって、まるで彼らがカーブするレンズ(魚眼レンズ)を通して見るように、この方法は見ためのイメージをうまく表現している。

詳細を調べてみると、ボスコレアーレの絵画には、消失点がありこの使用を示しているが、しかしルネサンスのように水平線ではなく、これは上下の垂中線を重要視していた。

もしこの遠近法が劇場で使用されたならば、一点透視図法のルネサンスの背景のように、観客席の側面(中央でないポイント)から見た時の奥行きの視覚が歪んでいなかったであろう。』

ということは、古代遠近法の方が両目を使って人が見ている見ため”に近かったのではないか?

<ルネサンス遠近法との比較>

古代にも遠近法があったというのは、あまり聞いたことがなかった。あったとしても、ルネサンスの時代のような数学的に完成したものではなく、ただ人間の目はそのように対象を見るという習慣に従った未完成なもの、という印象であった。
しかし、この記述に出会いイメージが変わった。古代の遠近法の方がルネサンスの遠近法よりも人が自然に双眼で見たリアルな空間に近かったのではないか?

<ルネサンスの遠近法>
建築家ブルネレスキの発明とされるルネサンス遠近法は視点を固定した単眼視の表現だ。
以下はルネサンス時代の遠近法の描き方の図(3)
(3)A・デューラーによる遠近法の描きかた(Nel Segno Di Masaccio)


視点をある一点に固定しそこから対象物へと見えない線(オカルトライン)を引く。
このラインが眼前の対象とみかけのスクリーン(上の絵では中央のグリッド面)上に交わる点を捉え、それをテーブル上にある同サイズのグリッド上になぞっていく。
そうすると誰でも3次元の対象物や空間を2次元のレイヤに見事に描くことができる。

観察者の固定された視点からの3次元の世界を、みかけのスクリーン上にトーレスされた2次元として表現できる、というわけだ。

この世界を覗く目をレンズに置き換えその像を銀板に焼き付けたものが後の写真機であり一眼レフの原理だ。

確かに私たちは世界をこのように見ている、はずだ。

が、これはちょっと不思議な世界だ。
なぜなら、目をまったく動かさず片目で覗いた世界の捉え方だからだ。

<固定された視点と見回しの視点>

人は、当たり前だが眼球を常に動かし、2つあればその視差で立体感を意識しながら対象物を隅から隅まで追う。“見回し”という動作を常におこなっている。この“見回し”という動作が、空間を時間的にも捉える視覚を通した認知=動きを伴った知覚に関わっているわけだ。

では、固定された視点と見回しの視点ではなにが違ってくるのか?
固定された視点では実は視線の端で捉えた対象物は歪んで見えているという。
実際の一眼レフのレンズで実際に試してみると本当にそうなるのだが、しかし画家は描くときそのような科学的にリアルである表現を取って来なかったという。

引用『錯視の世界』より
『絵画は、遠近法の点で写真とは異なる道をたどった。遠近法は、眼を完全に固定したとき、(これは現実には起こりえないことだが)の見え方である。例えば、ある光景のなかで端にある球は、遠近法的には楕円に見える。これは、写真でもそうなる。しかし、私たちは、写真の場合には、楕円に見えることをレンズの性能の悪さのせいにして、レンズが周辺の光景をゆがめているのだと思っている。(これは誤りだ。)画家は、絵画の端でも球を円で表現する。しかし私たちは、それをおかしいと感じない。』

この事を確認すべくカメラが実際にはどう対象物をとらえるかを、球体を使って撮影してみたのが以下。(4&5)
(4)カメラのレンズの中央で捉えた球=球体をしている(ITRUS)
(5)カメラのレンズの端で捉えた球=横にのび楕円形になっている(ITARUS)

空間をスケッチするとき、実際に空間を見ながらその空間の様子を紙の上に描いていく場合と、対象の空間を一度写真で撮って、その写真を見ながら紙の上にトレースして作った作品とでは空間の奥行き感がかなり異なった作品になることがある。

上の実験のように、特に画面の周囲の方が歪むのが写真。実際単眼を固定した視界で捉えた世界は、そのようになっているはずだ。しかし、実際には人はそのようには、つまり写真が写した世界のようには空間を見ていない。

『見回す』ことにより自然と視覚矯正してしまっている

先ほど見た古代ギリシャの魚眼レンズのような遠近法では、端の方の空間を曲げて表現しているわけで、端の方を描く時はそちらに目のレンズの中心をずらしてナチュラルにみえるように修正し描いているというわけだ。この古代遠近法の方が人間が双眼で見た視覚の有り様に近い。


ルネサンスの遠近法にはない人間の目が動くという動きを伴った知覚的要素がここには入加わっている。



以下はルネサンス遠近法の一点透視図法による作図法で描いた、3Dの中に配置してみた球体。やはり中央の球体は丸いが、端に行くと楕円になってしまう。(6)

(6)ルネサンスが生み出した一点透視図法によるシュミレーション
端の画像は歪んでしまう。(ITARUS)
こちらの方が写真で撮ったよりもさらにその歪み具合がよくわかる。一点透視図法は確かに単眼で見た世界を科学的に解析して表現しているが、実際には人はそのようには世界を見ていない

<ピンホールカメラの世界>
ピンホールカメラは、ルネサンスの遠近法の発見と関係しているとよく言われいる。
暗い箱『カメラ オブ スクーラ』(7)に小さな一点を開ける、そこから入ってきた光が小さな穴によりレンズ効果をもち、部屋の壁面に像を結ぶ。
人間の眼球が像を映し出す原理と同じだ。しかし、この像はやはり端が歪んでいる。
(7)lLa Camera Osucura
カメラ オブ スクーラの原理(Nel Segno Di Masaccio)

ピンホールカメラの原理はこの暗箱と全く一緒だ(8)


(8)ピンホールカメラの原理




『ピンホールカメラは、針先のような小さい穴(ピンホール)を使って光を通し、一定距離の先にあるフィルムや印画紙などの感光材の上に像を映し出す仕組みのカメラです。
物体に太陽光などの光が当たると、色々な方向に光が反射されます(散乱)。ここで一つの箱を用意し、その外側にピンホールを置くと、箱の外側から来た光はピンホールによって一つの方向の光だけが通され、それ以外の光は箱によって妨げられます。そして箱の内側に感光材を置くと、その一つの方向の光が感光材上に像を結びます。これがピンホールカメラによって写真が撮れる原理です。』

また、この原理を応用してルネサンスの時代以来、画家によってはレンズを使い写真のように映った像をトレースして絵を描いていた、ということを分析した面白い本がある。
画家デビット・ホックニー『秘密の知識』だ。(9)
(9)『秘密の知識』 デビット・ホックニー

ホックニーはこの本の中で、ルネサンス後期の画家カラバッジョの絵を挙げて、それが光学機械を使用して描かれていると分析する。カメラの単眼視で捉えた写像をコラージュして一つの画布の上に貼り合わせているというのだ。

ルーベンスがカラバッジョのその絵を模写したものがあり、その二つの違いを詳細に分析している。


(10)カラバッジョ『キリストの埋葬』
(11)ルーベンスによるカラバッジョ『キリストの埋葬』の模写

以下、引用。(『秘密の知識』デビッド・ホックニーより)
『〜前略。ルーベンスはローマでカラバッジョの『キリストの埋葬』を目にし、これに感銘を受けた。そこで模写まで描いたが、興味深いことに、人物の劇的な仕種を変更して空間全体をより滑らかで自然なものに変えている。この模写をしたことによって、ルーベンスは映像の投影からある種の単純化が生じることに気づいたのではないだろうか。
 二次元は写しとれる。しかし三次元を二次元に「写しとる」ことはできない。私の主張の核心はそこにある。画家はつねに三次元の空間にあるものを見ているわけではなく、空間の把握に優るほど強い影響をおよぼす二次元の映像をみている。ルーベンスの模写とカラバッジョの原画を比べてみれば、ルーベンスの描く人物のほうが重量感に富み、生命力を感じさせることに気づくだろう。かれらには命が漲っているのに、カラバッジョの人物にはそれがない。重量感については、死んだキリストを見ればよい。それからルーベンスの模写では背後に立つ人びとに動きが感じられる。ところがカラバッジョでは、みなポーズをとっているにすぎない。ルーベンスは登場人物の周囲に空間を錯覚させる。カラバッジョはかれらの映像をカンヴァス上に積み重ねるばかりだ』

ピンホールカメラの原理を逆手にとった面白いアート作品を見たことがある。
画像が歪まない範囲で対象物を中心でとらえた写真を何枚も立体的かつ観察者の視点から等距離になるようにドーム状に貼っていく。一枚一枚には歪みがない。それをつぎはぎしてあるわけだ。カラバッジョが行った手法と一緒だ。
その写真を視線を追いながら見ていくとリアルな空間を見ている感覚に襲われる。短時間だが記憶の中で見えている対象物を繋いで一つの空間として認識し始める。

このアート作品が示しているように、人は瞬間瞬間に見た画像を記憶の中で結び、歪みを修正しながらダイナミックに世界を捉える。


人は空間を見回すとき、このアート作品のようなピンホールカメラの二次元の画像を空間に何枚もはり合わせるのと同じことをやっている。

瞬時にスクロールしながら記憶のイメージとして3次元画像を作っているのだ。
人間の空間認知にも時間が関与している。空間も動きの中で、物語のように把握されいているのかもしれない。

<遠近法からの脱出>
遠近法という数学的かつ光学的に完成された世界の見方に私たちはルネサンス以降ずっと囚われてきた。そしてその手法は、私たちのものの見方を固定し、それのみが正しい手法であり、正しい見方だと我々に思わせてきたわけだ。実際には古代遠近法のように人はものを見るとき、矯正しながら世界を認知しているはずなのに。

しかし、20世紀の初頭、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックが始めた“キュビズム”という革命的な絵画手法は、固定された静止画のような世界の認識の仕方に一石を投じた。キュビズムとは、まさにアフォーダンスが提唱する“動きの中で知覚すること”を先取りしたアートである。

<ピカソの実験>
ピカソが行った実験はこうだ。
対象物を描く時、まるで昔のカメラの撮影のように、対象物を動かさず数分間露出することにより、一つの固定された視点で対象物を描くのではなく、対象物を数時間にわたり様々な角度の視点から得た描写のイメージを2次元の紙(スクリーン)の上にコラージュし重ねて描くという方法だ。

パブロ・ピカソ『パイプをふかす男』の解説にはこうある。(10)
(10)パブロ・ピカソ『パイプをふかす男』
『従来の遠近法では画家は一カ所にとどまり、しかも視線は対象の表面ではじき返されその背後のものは見えなかった。これが奥行きの特質である。ピカソは自ら移動しさまざまな角度から眺め記憶し、それをひとつの平面に配置することで、多角的な対象把握を可能にし、革命的な現実認識の方法を提示した。分析的キュビズムの代表作。』
『モダンアートの魅了』より

固定された時間の固定された視点からの逸脱。
ピカソはまさに人がどのように世界を見ているのかをもう一度見つめ直そうとした。(11)
(11)パブロ・ピカソ『座せる女』
顔に注目。二つの異なった方向から描いた顔をコラージュしている。

この絵に透視線(オカルトライン)を加えるとこんな感じになる。(12)
(12)上の絵に透視線(オカルトライン)を入れたもの
やはり一点には収束していない
描く視点を移動させ、多視点から描いているので消失点は一点に収束していない。
一見、歪んでいて、子供が描いた間違った遠近感のようであるが、それは近代の遠近法から見てのことであり、ピカソは、ルネサンス以降“人は空間をこう見ている”と結論付けてきた近代の遠近法的なものの見方・表現に異議を唱え、もう一度人間の知覚から発想し空間認識の原初に立ち戻って絵画を描いたといえないか。


古代遠近法の話に戻ろう。
<エンタシス>
古代ギリシャの遠近法は、先に見たピンホールカメラのアート作品と同じことを行っている。視線の端の方にあるものは歪んでいく。それを矯正するために曲面レンズのように空間を捉え視覚補正した画像を2次元の上に描く(図2参照)。

垂中線を意識したのは、人間の目が平行に横についていることに由来する。人の水平方向の視野の広がりの角度は垂直方向のそれよりはるかに広く、まさにギリシャ劇場の客席の開きが220度であったように、人は水平方向の視覚は補正しやすい。
一方、垂直方向の視野は狭い。見慣れない超高層ビルを近くから見上げると、上が異常に膨らんでみえることがあるがそれはこのためだ。

エンタシスというギリシャ人が円柱の中心部をふくらませて表現したのもこの遠近法の応用と考えることができる。(8)

(8)シシリア島 アグリジェントの遺跡にある古代ギリシャ神殿の一部
柱の中央部での膨らみと上部での減衰に注目(ITARUS)

例えば実際に舞台で柱を立てるとき、どこから見ても垂直に綺麗に立っているようにするのはとても難しいが柱の上の方を細くすると多少『立ちが悪く』てもまっすぐ立っているように見える。

古代ギリシャの遠近法。これは未完成の手法ではなく、人間は本来そのように空間を見ているということを意識して作り上げた手法なのではないか?

両眼を使った“立体視”“動きをともなった知覚”を意識し視覚矯正をほどこしたもの。それが古代ギリシャの遠近法ではないだろうか。

ルネサンスの遠近法に比べ、確かに科学的・数学的ではないかもしれないが、実は人間が対象物を観るときの意識や知覚の変化精神的な感覚等を意識した、現代の科学ではまだ扱いきれない別の思想・方法論であったといえないだろうか。