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2019/04/05

セノグラフィー ってなに?<スケッチ散歩6>長野 善光寺の謎を巡って


善光寺 参拝~善光寺の謎を巡って〜2018/01/13


<長野の由来>
南に開けた緩やかな傾斜地
その長い野原が長野の由来という。

遠くに信州の山並みが見える。
真っ直ぐな参道をぐんぐんと登っていく。
善光寺の大きな門(仁王門)が参道の遠くからでも良く見える。

劇団青年団の公演で初めて長野を訪れた。折角なので空き時間、
善光寺にスケッチ散歩に出かけた。

真冬の長野、凛とした空気が張りつめている。
南側斜面に開けた参道は真冬でも日差しを受けて気持ちがいい。

絶妙な曲線の
唐破風重厚だが軽やかな兜のような屋根。仁王門の前には数段階段があり、そのため近づくと門は高さを増して大きくせまってくる。
黒く浮遊する武人の兜のような屋根の向こうに真冬の信州の蒼い空が広がっている。(1)
(1)長野 善光寺参道とその先の仁王門
<仁王門と仁王像>
空に見とれていたら門の端に屹立する黒影が目に飛び込んでくる。仁王像?ドキっとする。
階段を登り門をくぐるとき、左右の阿吽の仁王像と目が合うポイントがある。否応でもちょっと立ち止まってしまう。
「我々がみているぞ。ここから先は、悪人はとおれぬぞ。」
そんな声が聞こえたかどうか。恐る恐る門をくぐる。(2)

(2)長野 善光寺 仁王門
後でわかった事だが、善光寺宝物館に大正時代の小さな模倣があり高村光雲と弟子の米原雲海の作とあった。(3)
(3)善光寺 仁王門 仁王像 彫刻
https://www.zenkoji.jp/houwapost/第36回%E3%80%80仁王門について/より

仁王門の中に足を踏み入れると、次元がまた一つ変わる。さらに開けた高原の平地が広がる、巧みなシーン デザインだ。

そこから真っ直ぐと伸びる石畳の門前街がまた素敵だ。
その先に三門と善光寺本堂が顔をだす。


<風水と善光寺>
古人が列島の背骨に発見した美しく素晴らしい環境。大寺院はその地に佇んでいる。
緩やかな南斜面の地、北に山を従えたそれは、風水を読み解いた古人の知見の見事さだ。遠く東を流れる千曲川が東を司る青龍だろうか。

平安京にも匹敵する強い風水の地。
古人がこの地のパワーを読み解き、古くから城や都、寺院が建立されたのもわかる気がする。
信州の地にあって時の中央の権力、大和朝廷とどのような関係をきづいていたのか?
信州の山並みが聳えるどこまでも蒼い天球を見上げて妄想する。


<門前町と石畳>
歩こう。今度は下に目がいった。(4)


(4)参道の見事な石畳
敷石が美しい。ちょっと赤みがかった、表面が滑らかな石だ。
近くの案内版には、安山岩とある。江戸時代に信州の山から掘り出したものだと言う。看板に曰く、泥棒だと思い殺した相手が放蕩の我が子だと知った大商人が業の深さを悔い寄進したものだと言う。7777枚もあるらしい。因果、因果。六根清浄、ろっこんしょうじょう。

この綺麗な石畳を歩きながら、
イタリアの中世の街 ベローナを思いだした。
街の道路という道路がちょっと赤みがかった大理石で敷き詰められている。ベローナローザと呼ばれる美しい石畳の街。
それにも匹敵する凛とした気配をこの敷石はつくり出している。
江戸中期、どれだけの富が善光寺に注がれたことか。石が無言に語っている。

敷石が作り出す浄土の結界。
時代を超えて様々な人々の憶いが、重なり連なり通り抜けていった石を踏みしめながら歩く。

参道の端々にここは何丁という表示があり、それが変わるたびというか、地形にその丁を合わせたというべきか、丁が変わるたびに傾斜の角度が変わったり参道の建物の雰囲気が変わっていく。

仁王門を越えるといよいよ善光寺の境内に入ってきた感がする。

仁王門から三門までの間はいくつもの土産屋や蕎麦屋がのきを連ねている。



<いよいよ三門>
平入りの三門は五間間口の二層で、お金を払えば楼閣に上がれる。
江戸時代の再建という。帰りに登って見よう。(5)
(5)本堂と見間違えるほどの三門の威容


京都の南禅寺の三門、知恩院の三門にいずれ劣らず美しい。
こちらの三門は一層と二層の垂木は平行に並んでいる。確か南禅寺の三門の二層の垂木は放射状だったような。こちらの方がシンプルな印象を持った。

まだ正月、13日だ。
三門に掲げられた文字の中に鳩がいるという善光寺の額を挟んで賀正の赤い字がはえる。(6)

(6)善光寺山門の額/5つの鳩がいるという、、。
http://goldnews.jp/photo/chubu/entry-1508.html より


<フレーミングされた本堂>
三門の真下にて、また立ち止まる。
太い円柱に切り取られ、いよいよ本堂が顔を出す。

本堂と三門の絶妙な距離と柱間から切り取れれて見える本堂のバランス。
古人のシーンデザインの巧みさにまた驚く。(7)
(7)三門の柱が作り出す額縁から本堂を眺める
<本堂の屋根の形の謎>

大きい!
屋根が浮いている?
この迫る感じはなんだろうか?

お寺だよね?
ちょっと不思議な感覚に襲われる。

?の理由を考えてみる。
今回これを書こうと思った理由がこの違和感にある。

善光寺は独立した宗派の寺院だという。創建も古く平安時代頃だ。
?と感じたのは、なんかお寺っぽくないのだ。
いつの時代でなんの宗派なのか?
外観の印象が今まで京都などで見てきた寺院のどれとも似ていない。
その違和感は屋根と正面の見え方にある。

本願寺や知恩院と言った鎌倉仏教の本堂は横に広がっていて屋根はこちらに柔らかな曲線を差し出している。建築的には平入りといい優しく招き入れるような形をしている。
空海の東寺や日本最古の仏教寺院、法隆寺の金堂、講堂も平入りだ。
(8)
(8)京都 本願寺 本堂
http://www010.upp.so-net.ne.jp/teiryu/Ky12.htmlより

しかし善光寺の本堂は、切妻屋根の三角が天空に鋭角となって聳えている。正確には入母屋屋根だが、聳え立つ鋭角が印象強く、写真を見返すまでは切妻だと思いこんでいた。
その深く高い三角の妻手の下が、流れ作りの曲線になり、しなやかにこちらに迫ってくる。
それはまるで鳳凰が飛び立つような、重厚だが颯爽とした印象を与える。
さらにその下に裳階が廻り唐破風となり、二重に階層が連なった屋根は両翼を広げた鳳凰が翼を上下させたような動的な印象を強める。
それは今まさに飛び立ち、翼をいきよいよく上下した軌跡が残像として残っているような感じ。(9)
(9)善光寺 本堂外観

切妻や入母屋という屋根の形はどちらかというと神社の建築に見られる様式で厳かさ・
畏れを抱かせる感じがある。
神社 春日造の例(10)
(10)神社 春日造の例 
https://kotobank.jp/word/春日造-44514より


御柱が御神体となり、天と地を繋ぐ間の装置として機能する。内部は神の為の空間となり、通常人は外から祈る。神明造の例(11)
(11)神社 神明造の例 柱自体が御神体になる
https://kotobank.jp/word/神明造-82645 より



一方寺院の内部は読経や修行、祈りの為の空間だ。
信者をなるべく多く招き入れ,
皆に読経が聞こえるよう横に広く、仏に近く座れるような仕掛けに溢れている。

<風水を取り入れた本堂の形>
善光寺の本堂は奥行き深くその外観の印象は、凛としてまさに鳳凰が飛び立つような姿だ。
南に向かう鳳凰といえば、、。
風水を意識している?
そこでちょっと思いあたった。

例えば京都は風水を巧みに読み込んだ都市で、寺院などでは、各々の方位にちなんで龍-東、朱雀-南、虎-西、亀-北のキャラクターがその方位に関係する位置の屋根瓦や門にいたりする。この善光寺の本堂の南面のファサードの表現自体が、朱雀即ち鳳凰に見立てられているのではないか?だからだろうか寺院の本堂というよりは、神社あるいは、皇帝の住む御所のような印象を受ける。


いずれスケッチしてみよう。
何か謎が解けるかも、、。


<本堂の平面の謎>
本堂の前で焚かれている線香を身体にあて、本堂に入る。
やはり大きい。そして平面図を見ていたときにも感じていたが奥がとても深い。間口の倍あるのだ。(12)
(12)本堂平面図(A - 外陣、B - 内陣、C - 内々陣、赤色は本尊安置場所)
https://ja.wikipedia.org/wiki/善光寺 より


こんな平面のお寺、他にあっただろうか?
また一つ謎を抱えながら、一番奥の下手に安置されている秘仏の前に佇む。
合掌。
秘仏(本尊)が下手に安置されている(平面図の赤い部分)のも不思議だ。
折角なので戒壇巡りをしてみる。

縁の下の真っ暗闇の道、右手の板を触る感触だけで前に進んでいく。
時折、丸い大きな柱の円弧を触り、何度か角を曲がり何かに触った。びっくりし手を瞬時に引っ込める。
ふたたび板壁を触りながら進むとうっすらと明るくなり、先程入った本堂上手の階段のすぐ奥の階段に出た。知らぬまに本堂下の暗闇を一周していたわけだ。
説明文を読んでみると、なにやら秘密の錠がありそれは秘仏に通じているらしく幸運をもたらすという。探しあて触って下さい!とある。
しまった!さっきのあの変な出っ張りの感触が、、。すぐに手を引っ込めてしまったが。

ああ、、。

暗闇の中を歩く。手の感触だけを頼りに。戒壇巡りや胎内巡りという空間装置の身体と関わるアート的な魅力に改めて感心する。

さてまあ、暗闇の後は心晴れやかに外に出る。
三門に上がり、信州のパノラマを体感し、セット券で回れる経蔵でお経の回転装置を回し、忠霊塔の地下にある宝物殿を見て、善光寺を後にした。(13)
(13)山門からの信州長野の眺望。山並みが美しい。




<善光寺参拝2日目>
翌日また訪ねて今度はスケッチを試みる。
(14)
(14)善光寺のスケッチ2018/01/14
サイドから見ると屋根のT字型の作りがよくわかる

前日にも感じた違和感。
それは外観、特に屋根の形がお寺っぽくないということ。

そして、内部空間に関してもだ。本堂の平面を見たときに感じた間口に対して奥行きが2倍あるという普通のお寺っぽくないという違和感である。

ちょっとほかの寺院の平面と比較してみたい。
例えば京都 知恩院 本堂(御影堂)。(15)
(15)京都 知恩院本堂(御影堂)平面図
https://ja.wikipedia.org/wiki/知恩院#/media/File:Chion-in_Hondô.jpg より


先に写真でみた本願寺本堂もこの法然聖人の知恩院本堂(御影堂)も横長の平面をもっている。基本間口(柱と柱の間)は奇数で中央が間(開口)で受ける。人を招き入れる形だ。


この違いはなんなのか?

善光寺は何度も燃えているという。現在目にするのは江戸中期の再建。
もしかしたら、もっと昔は違う形だったのかも?とネットで調べてみると。
2つほど、描かれた善光寺の姿を見つけた。


<善光寺いにしえの姿>
一つは鎌倉時代の絵。
一遍上人絵伝に描かれた善光寺だ。(16)

(16)一遍上人絵伝 善光寺(第1巻三段)
https://s.webry.info/sp/nora-p.at.webry.info/201511/article_11.html より
この絵では、本堂は横長に描かれており、本願寺や知恩院と似た感じになっているが、

屋根の形にやはり現在と同様の特徴、すなわち入母屋の形が見えている。
屋根の棟の形は十字形になっている。


もう一つは豊前善光寺所蔵の縁起絵伝に描かれた善行寺。こちらは江戸時代中期という。(17)
(17)豊前善光寺所蔵の縁起絵伝(江戸中期)
http://mylovetabilogs.blogspot.com/2015/09/blog-post_24.htmlより



よく見ると手前の空間、現在の外陣にあたる部分は壁がなく屋根のみのテラス空間になっている。もしかすると信者が多いため祈りの空間を増設するという目的で一編聖人絵伝のような平入りの軒の空間が伸びてきて、室内化したのだろうか。
共に入母屋作りの屋根は共通しているが、間口と奥行きの幅の関係は逆になっている。
こちらの方が現在の善光寺にかなり近い。そして現在と共通しているのは屋根の棟の形だ。T字形になっている。
平面図にトレースすればこんな感じ。(18)

(18)善光寺 屋根の棟のT字型のライン

これは何を意味しているのか。
屋根の形態が内部空間の用途に合わせ変えられているという事だろう。

すなわち善光寺の本堂は二つの空間から成り立っているという事を示している。
先に見た江戸時代中期の絵のように、前方の外陣部分と後方の内陣部分。
単なる縦長の空間ならわざわざ屋根をこのように分離する必要はない。切妻のシンプルな屋根を通せば良い。しかし、善光寺のこのT字形の屋根は二つの異なる空間を結合した事を意味するのではないか?


<ハイブリッド空間>
即ち、奥は従来のお寺の本堂、それも方形の空間に平入りの屋根。
前方の部分は妻入りの形、すなわち切妻形の神社の形式の空間だ。

寺院のスタイル神社のスタイルを合体させたハイブリッド空間なのである!(19)

(19)善光寺のハイブリッドな空間構造


ハイブリッドな聖なる空間、、?とくればビジュアルアナロジー的にはハイブリッドな古墳の形、前方後円墳に飛ぶのである。

<前方後円墳とストーパ>
方墳と円墳という全く異なるシステムをハイブリッドに結合させた形。

近畿のみならず関東、長野にも多く分布している古墳の形式。
例えば長野にはこんな前方後円墳があるという。(20)
(20)長野県 森将軍塚古墳
https://www.travel.co.jp/guide/article/26566/ より 写真:松縄 正彦氏

なぜ前方後円墳に飛ぶかと言うと、、。

『空海 塔のコスモロジー』 武澤 秀一/著という本で、塔の原型であるインドのストゥーパについて面白い記述がある。


ストゥーパは塔であるが、土饅頭に近く平面は円形をしているという。(21)
(21)サーンチーの大ストーパ
https://ja.wikipedia.org/wiki/仏塔#/media/File:Sanchi2.jpg より
そして、参拝の方法はその周囲をぐるりと巡るという方法なのだ。日本のように正面で参拝するのではなく、この円墳の周りをグルグルと巡ることが重要なのだ。
まるで戒壇めぐりのように。あるいは、チベット仏教で見かけるお経を回す装置=マニ車のように。
前方後円墳の後ろ部分の円墳のルーツがストゥーパなのではないか?。

ストゥーパが中国に伝わり石の多重塔となり、木造の塔となり、日本に入って来て法隆寺の五重塔の形になる。
元の石塔、例えば五輪の塔は平面は方形と円形が重なっている。(22)

(22)叡尊塔(奈良市西大寺奥の院)五輪の塔→幾何学形態の重なり
https://ja.wikipedia.org/wiki/五輪塔 より

<戒壇巡りとストーパの参拝方式>
そして先ほどの本堂下部を巡る、“戒壇巡り”は本堂の奥の真下をぐるりと巡るルートになっている。善光寺の本堂の奥の方形のベースにストゥーパに通じる円墳のアナロジーが隠れていはしまいか?
戒壇巡りのルートが、不可視の円墳を浮かび上がらせるのだ。(23)

(23)善光寺 戒壇めぐりMAPより

真っ暗闇の中での手探りで歩くルート。なんども折れ曲りながら、八の字を描かせるように身体を誘う。この円形のルートにストーパの痕跡がみいだせないだろうか。(24)




(24)善光寺 戒壇めぐり イメージ概念図
内陣と内内陣を八の字を描いて回る。不可視の円が体感として浮かびあがる。
外陣Aの方形の空間とBの下部にある不可視の円形空間のハイブリッド構造

どんどんと妄想が膨らむ。
前方後円墳の方位に対する布置の仕方は?どうだろうか?
円墳の部分が北側にありはしないだろうか?
長野エリアにも前方後円墳が多く分布しているという。

そのエリアと長野、信濃川の関係は?
善光寺は元は地域の王族の聖地ではなかったろうか、、、?


<風水と善光寺> 先に初めて善光寺を参拝したときに、感じた自分の記述をもう一回読み返す。

『古人が列島の背骨に発見した美しく素晴らしい環境。大寺院はその地に佇んでいる。
緩やかな南斜面の地北に山を従えたそれは、風水を読み解いた古人の知見の見事さだ。遠く東を流れる千曲川が東を司る青龍だろうか。

平安京にも匹敵する強い風水の地。、、、』




物流の拠点、風水の地。大和朝廷と絶妙な距離をとってきた王族の聖地?
大和朝廷との関係の中で、寺院としてその王族の痕跡を巧妙に隠しながら存続させてきたのではないか?

謎は深まるばかりだが、善光寺の唯一無二の形態や単独の宗派であるという事、長野の地域性や独特の文化の中で大切にその存在が守られ、愛されてきた事がわかった気がした。

この善光寺の地形が持つ、風水は不可視の龍の道をイメージで浮かび上がらせる。

山門を降りながら、そんな事を妄想する。

<追記>
善光寺に向かう途中 権堂商店街にある宇賀神弁財天を参拝した。芸能の神・弁天様。
舞台芸術に関わる者としては是非ともと思いスケッチ。
実は後でスケッチを見返して気づいたのだが、この弁天様のお堂の屋根も善光寺本堂と同様な造り、入母屋と唐破風まで善光寺をトレースしている平入りと妻入りのハイブリッドになっていた!善光寺のミニチュアといっても良いかもしれないつくりなのであった。

また、この弁財天が九頭龍の伝説、すなわちヤマタノオロチと関わっているという。
ヤマタノオロチを退治した素戔嗚尊はインドの芸能の神・牛頭天王と習合している、、。
弁財天と九頭龍と素戔嗚と芸能と、、。
謎は深まるばかりだが、龍の道を内在させた善光寺の風水的布置に改めておののく。(24)

(24)宇賀神大弁財天のお堂
かわいらしが風格がある
スケッチの時に書いた文章(絵の上)。
『善光寺 参道の東側に権堂商店街の大アーケードが一直線に伸びている。
そのたもとの所に弁財天がある。
権堂の由来となった寺。法然聖人が泊まったとある。
九頭龍の伝説と関わる弁財天。
ひっそりと美しくたたずんでいる。』


2019/03/01

セノグラフィー ってなに?<スケッチ散歩5>関内スケッチ散歩

関内スケッチ散歩
2018/06/23

小雨降る中ワークショップはスタートした。
横浜・関内地区。
防火帯建築である伸光ビル301号室のリノベーション計画。
「部屋を育てるアートプロジェクト」として約3年にまたがるNPO法人SAIのアトリエを作り育てるプロジェクトの始まりだ。
今回はそのプレワークショップ。

SAIの杉山がナビゲーターとなり、横浜関内を拠点に活動している建築家・浅沼秀治氏をゲストに迎えてのスケッチ散歩ワークショップ。

参加者は学生が5名、大学を卒業したての六尺堂メンバーが1名、常盤ビル関係者が3名に、我々SAIスタッフ6名と記録で関わってくれる事になった"もてスリム"こと石神くんの総勢15名+幼児1名でのワークとなった。

前日からSAIの袴田くんと私で、長い間使われていなかったこの301号室のチリと雑菌を除去すべく、若干塩素中毒になりながらカビとショウジョウバエの地獄と化したトイレ掃除・キッチン周りの除菌を行う。仕上げにバルサンを焚いて一日おく。ダニやゴキブリにはやはりバルサン。
以前部屋を下見させてもらった時のカビ臭さと、なんだか身体が痒くなる感じは一掃できた、はず。

当日10時からスズケン(鈴木健介)と杉山がくる。だんだんと人が集まり11時までには濱崎くん、中村さん&ななちゃん2歳が参戦。
土足で上がる畳に違和感を感じながら、20年近く溜まった部屋のチリを拭いてゆく。

この湿度は雨のせいばかりでもなさそうだ、海の近く、埋め立てられた関内の地層、地理的要因とも関係しているはず。関内は蚊が多いという。

13時からワークショップがスタート。
杉山によるこのプロジェクトに関する概要説明のあと、スケッチワークショップの意義について考現学の今和次郎、吉阪隆正、丸山欣也先生を引き合いにセノグラフィーと景についてスライドで解説。



続いてゲストの浅沼氏が作ってくれた関内の成り立ちがわかる数種類の地図の資料を見ながら地域についてのイメージを膨らませる。
右上の写真は太平洋戦争 空襲の後の横浜・関内

そして、今回建築の視点からの重要なマップ。防火帯建築の分布図だ。



関内防火帯建築マップ 火災時の延焼を防ぐために交差点の角にコンクリートの建造物を配置した都市計画
x
































午後14時すぎ、いざスケッチ散歩へ!

ルートは関内の中央を東西に走る弁天通りの西の端、弁天橋まで行って関内の語源になった現在の関内駅の高架下にある川と橋と関所の痕跡を見て、フリータイムとなった。

この時点で15時、残り1時間で2〜3枚のスケッチと最低3〜4くらいの気になるポイントを採集しに皆、雨の中に散っていく。


私は先程皆で歩いたとき初めて遭遇した景色、弁天橋の船溜りからみる高層ビルと建造中の新市庁舎の鉄骨とクレーンが忘れられずそこに戻った。

川に架かる歩道橋の下で雨宿りをしながらスケッチ。
なんだか、30年前、21歳の時旅行した上海のバンドを憶い出した。
描いている内に遠い記憶が重なってくる。スケッチ散歩の醍醐味の一つ。
視覚と身体感覚が沈殿していた過去の記憶をかき混ぜる。


船だまから弁天橋を望む

極東の汽水域、19世紀の上海と横浜。規模は全くことなるが役割は似ている。ヨーロッパの列強による帝国主義が席巻した19世紀、小さな漁村だった横浜にも上海のような租界が出来上がる。
関内エリアはまさにその中心。
長崎の出島のように江戸期に埋め立てされた整然とした区画が今もいきている。さらに関東大震災、太平洋戦争という二度の廃墟化と米軍による接収時期を乗り越えて、それらの時層が重なり現在を作り出している。

関内の人に会うとよく聞くのが、ここはそうは言っても高々150年しか歴史がない、みな他所から来た人が作った街なんだ。という話し。
港町特有の来るもの拒まず、去る者は追わずのイキな精神が今も息づいている。

開港を迫られ急ごしらえで港を建設し税関所を作り、物流・金融の街として外国商社や銀行が支店を構える。西洋の文物を真似て、擬洋風という様式ができあがる。
通訳として連れてこられた中国人が中華街をつくる。
150年前日本が初めて欧米の帝国主義、資本主義と出会ったのがここ関内なのだ。

そんな事をつらつらと考えながら弁天橋から汽水域の港湾地区を挟んで、みなとみらいの超高層ビル群を眺めてスケッチをする。

6月の雨は降り続けている。

船溜りに一艘の船が戻ってきた。
新市庁舎建設のクレーンと建設現場は黒い塊となって槌音を響かせている。
弁天橋の上にはせわしなく人と車が行き交っている。
ランドマークタワーの上層階は遠くの雨空に消えている。


先ほどスケッチした場所を写真でも押さえる


今はいつだろう?
手際よく船を停泊させたあの人は、150年前からそれを繰り返していやしまいか。
港にはつい先程、異人とまだ見た事もない西洋の文物を乗せた蒸気船が入って来たかもしれない、、。
雨に打たれ続けている横浜・関内の原風景を観た気がした。

極東の外れの小さな漁村だった横浜の21世紀の風景。
川と海を物流と交流の拠点とするため船や橋でつなぎ、今は空とこのちっぽけな日本列島を所狭しと高層ビルが繋ぐ。ここは空と海と川と陸、日本とヨーロッパ、島と大陸の結節点だ。
横浜がこの150年で担ってきた人と人、モノと場所、環境との関わりの様々なイメージを凝縮させたゲニウスロキがこの船溜りの風景にはある。

西洋と出会った横浜の原風景。
関内弁天橋の船溜りのたもとで
その景色は2018年6月の雨に打たれている。


アトリエの近くに戻ってきてもう一枚スケッチを描く。常盤ビルと伸光ビルの空隙。アジアの裏路地のようなパイプや雑然としたオブジェクトがむき出しになり、道路とは違うセミパブリックな空間を作り出しいる。どこからか料理の匂いがしてきそうなそんな妄想に狩られる。(スケッチ図)
トキワビル2F廊下からの空隙を眺める
16時。
このワークショップのもう一つの重要なワークである妄想地図作りの為のマッピングを行う。
スケッチ散歩で発見したもの・ことを言葉にして参加者がマッピングしていく。


スケッチや写真で採集してきた要素を、色分けしながら関内の地図の上に皆でマッピングしていく。
構築物、サイン、出来事、自然物、オブジェクト(小物)、風景など。
空間を歩きながら、参加者がどのような視点で関内を見つめたかを可視化する。


ぱっと見、構築物系(赤色のふせん)が多い。また、関内のちょうどこのビルのエリア近くに見どころを多く発見したようだ。

参加者に自己紹介してもらいながら、発見した要素をスケッチと写真でプレゼンテーションしてもらう。





18時前にワークショップは無事終了。

何度も横浜は訪れているが、関内の見え方が変わった気がする。

今回のこのワークショップで体験し身体的知覚から発見した要素を“記憶の地図”や“身体的知覚マップ”として何とか表現出来ないか?

『部屋を育てるアートプロジェクト』次の段階で是非その方法を探いきたい。

2017/03/30

セノグラフィーってなに?<スケッチ散歩4>

<旧島津公爵邸スケッチ散歩>

春というには、まだ寒い日。
時折晴れ間が覗く。
五反田のごみごみとした喧噪が嘘のようだ。通称ソニー通りを渡り島津山の方へ。
300mくらい緩やかな坂道を登る。
今はもうソニーの本社や町工場はほとんど移ってしまい、高層マンションや巨大オフィスビルがひしめく。

私たちの工房、六尺堂があるエリアだけが高度経済成長を牽引した五反田の工場街の気配を残すのみとなった。そこから歩いて5分ちょっと。
昭和のその時代よりももっと前、大正初期、明治の時代の気配を色濃く残したそんなエアースポット。
旧島津公爵邸を訪ねた。

<ジョサイア コンドル>
旧島津公爵邸。現在は清泉女子大学の本館として使用されている建物。
設計はジョサイアコンドル(1)

(1)ジョサイア・コンドル(1852-1920)(Wikipedia)
お雇い外国人として来日し東京大学の前身、工部大学校の教授として日本の近代建築の基礎を位置づけたイギリスの建築家だ。
弟子に東京駅を設計した辰野金吾や片山東熊がいる。

今回のこのスケッチ散歩は、清泉女子大学、英文学の研究者、K先生のご協力を得て実現した。

<校門前にて>
春の日の昼下がり。背後にこんもりとした大きな樹木生い茂る丘を擁した校門前に集合する。総勢12名ほど。
舞台美術を勉強している学生や、演劇制作者、背景画家、俳優とNPO法人SAIのメンバー。
女子大とは不釣合いなメンツがバツ悪そうにそわそわと集まる。
守衛室前を通り学内へ、ちゃんとパスをもらう。なんだか一安心。

<導入>
今は清泉女子大学として使われているが、既に守衛室からの急な坂道のアプローチが旧島津邸の気配を伝えてくる。
現在の守衛室の反対側には、昔日の門番小屋とおぼしき建物が残り、その脇には今は使われてない井戸がある。なんだか空気の密度が変わっていく。

五反田・目黒川の河岸段丘のハケ地に位置する島津山。井戸があるということは此処には湧水が出ていたのかも知れない。実際同じような地理的位置関係にある池田山(旧岡山池田藩下屋敷跡)には、見事な池があり風水的には江戸城の龍穴の位置にあたるという。

「昔のお屋敷は、門から建物が見えないように配置されていたようですね。」
とK先生が解説してくれる。

そういえば、同じコンドルの設計で、城南五山#の一画を占める品川八ツ山の三菱開東閣も、鬱蒼とした樹木に囲われ門からは中の様子が伺えない。

#城南五山とは?
江戸時代、風光明媚な地として知られた、高輪台から品川御殿山までの丘陵地の総称。徳川家光の鷹狩りのための御殿があった御殿山をはじめ、諸大名の下屋敷があった。海を見下ろす段丘沿いの高台に、明治以降、財閥や貴族が邸宅を構えた。花房山、池田山、島津山、八ツ山、御殿山で城南五山と呼ばれるようになる。城南五山という呼称は、江戸時代にはなく近代以降に通称されうようになったらしい。江戸城を中心としてみたとき、愛宕山、高輪台等東側の高台は地形的にみても京都五山の東山のイメージが投影されている。江戸時代の浮世絵には品川御殿山が、江戸五山の一つとして描かれている。(2)


(2)勝川春潮 『江都五山 御殿山』

<坂とカーブを伴った動的なシークエンス>
校門を入るとすぐにかなり急な坂道を登る。左手上、丘の上にある大木が影を作っている。その坂道を登りきるあたり、左カーブの先にお屋敷本館の建物が現れてくる。
背の高い樹木がプロセニアムのように額縁を作っている。
傾斜とカーブ、3次元的な身体感覚を伴った視覚。期待を高める動的で劇的なシークエンスのデザインだ。(3)
(3)樹木により縁取られた旧島津邸本館(ITARUS)

凄いねー!うわっー!うーん!
連れだって歩く口々に感嘆の声があがる。坂を登り切り回りこむようにして正面玄関の前へ。
しばし佇む。

<ファサード>
これがジョサイア コンドル設計の旧島津公爵邸か、、。

私がまずエントランス外観で気になった点は以下。
・重厚だが、軽やかで品のあるデザイン。
・灰色の石と若干クリーム色がかったレンガが華やかな印象を与える。
・派手すぎず、美しい幾何学的な線で構成されたルネサンス様式のデザイン。(4)
(4)旧島津邸エントランス側ファサード(ITARUS)
1Fの窓のアーチは楕円ではなく正円で、その上2Fと屋根のペディメントは三角形。バロック時代が好んだ楕円や、ねじれや歪みのない、シンプルで品格のある単純な図形。プラトン立体を用いたルネサンス特有の形だ。

大きなシルエットとしては左右対称に作られたファサード(正面の顔)だが、右側は内に階段室を控え、大きなステンドグラスがはめこまれている。(5)
(5)正面右手のステンドグラスの窓(内側に階段室)(ITARUS)
左側は、一階の窓フレームは正円、2Fの窓フレームは三角形となっておりルネサンスの時代、古代ローマ、ギリシャへの憧憬と研究が達成した建築の歴史的なオーダーに則ったデザインになっている。
(6)
(6)正面左手の窓の縁取り装飾(ITARUS)

この窓のデザインに、日本人の擬洋風建築とは異なりトラディショナルな建築の技法を熟知していたコンドルならではのセンスが感じられる。

<ダブルオーダーの柱>
正面車寄せのポーチは上にバルコニーを載せた軽やかだが品格のあるデザイン。
さらに、シンプルなドーリア式(トスカーナ式)の付け柱は角柱に半円をなして取り付き、もう一本は独立して立つ二本の連続する柱になっている。(7)
(7)エントランスポーチの2重の柱

後ほど見ることになる庭側のバルコニーでも採用しているダブルオーダー#の美しいデザインだ。

#ダブル・オーダーとは?
ルネサンスの時代、ミケランジェロが好んだデザインである。構造的には1本の柱でも済むが、2連の柱を用いてファサードの輪郭を際立たせる。(8)


(8)ミケランジェロ サン・ロレンツオ聖堂ファサード案
繰り返すモチーフが空間にリズムをもたらすと共に、独立した円柱が彫刻のように軽やかに柱のシルエットを浮き立たせる。
また、ミケランジェロはジャイアントオーダーという、階層を貫く一本の柱のデザインも好んで使用している。共に空間にリズムとアクセントをもたらす。(9)

(9)ミケランジェロ カピトリノー広場(ローマ)


<島津邸の地形>
話しを旧島津邸に戻そう。
まだ、建物の中に入ってさえいない。
旧島津邸。
もと、伊達藩の下屋敷があった目黒川の河岸段丘、高輪台地の一画に位置している。
古地図と照らし合わせると屋敷があるエリアが見事に重なる。(10)
(10)江戸古地図との比較


地形図での島津山の位置。高輪台地と目黒川が作る南斜面、海への眺望の開けた場所だということがわかる。(11)

(11)地形図にみる島津山の位置

建造当初は居室から品川の海が望めたという。現在は品川駅のニューシティのビル群が連なった壁のように遠くにみえている。

島津忠重の袖ヶ崎本邸としてコンドルが設計。何度かの設計変更を受けて大正5年(1916)に竣工。コンドルが得意としたコロニアルスタイルのベランダを持ち、軽やかで品格のあるルネサンス様式の建築といわれている。

この近くには、コンドル設計の三菱開東閣や三井迎賓館が残っている。
(共に一般には開放されていない。)

<高輪台地のコンドル建築>
この3つの共通点を考えてみた。どれも高輪台地、地盤の安定した山の手の地にある。だからだろうか、関東大震災でビクともせず、往時の姿を保っている。
また、どれも江戸時代から風光明媚な地として有名だった高輪、品川の地にあり、遠く千葉房総半島と三浦半島を両袖に見立てた江戸前の美しい袖ヶ浦(江戸湾の昔の呼び名)の景色を眺める事が出来たようだ。(11)

(11)御殿山花見の図にみる江戸湾の美しい眺望
どの建物にも美しいバルコニーが取り付いているのは、コロニアルスタイルという事以上に、美しい風景との関係で建物を捉えていた結果ではないだろうか。(12)(13)

(12)三井倶楽部迎賓館のバルコニー
(13)三菱開東閣のバルコニー

<エアーポケットのような庭>
そわそわとうろうろとする私たちに戸惑うK先生にいざなわれ、バルコニーの方から建物の中へ。と、入る前に今度は目の前に広がる庭園に見惚れる。

もとは、大きな池があったという。
それを埋めて中庭が作られた。角には伊達藩の和風庭園であった名残りとおぼしき灯篭や石組みが残されている。

ぼーっと佇んでいると、時間と空間の間隔がおかしくなってくる。
すぐ下には五反田の喧騒が広がっているはずなのに、この丘の上には静かな時間が流れている。
タイムスリップした感覚。

江戸の気配を消さず、その時空に重ねるように大正時代に建てられた洋館。ここだけ時間が止まったままのような時空のスポット。
そんな気配を抱きつつ洋館の中へ。

<やっと建物の中へ>
最初に案内して頂いたのは、現在の大学の先生たちの会議室。昔の主人の書斎の部屋である。(配置図)
(配置図)清泉女子大学HPより


ここでも入った瞬間に感嘆の声があがる。
ファーストインプレッションが大事なのだ。
感覚を開いて対象物を体験する。
住んで生活していた人々の動きや気配を想像しながら。

<書斎>
天井が高い。扉もでかい。そしてその扉枠のデザインの立派な事、、。ため息がでる。
暖炉も素敵だ。内装の彫刻も細やかでシャープだ。
大変な建築の中に入ってしまった!と感じる。
失礼だか、なんちゃって洋風の建築と比べられない、品格がある、、。と感じる。
いきなりヨーロッパに来たみたいだ。
五反田の繁華街の裏手に本物のヨーロッパの時空が隠れていたとは。

<いざスケッチへ>
この部屋に荷物を置き、いよいよスケッチ散歩へ。
まず、参加者に簡単なコンドルの紹介と東京で見られるコンドル建築の写真や、ネットから探してきたこの建物の初期設計図のドローイングなどを渡す。

K先生の案内で建物の中を一回りしてから、気になる箇所をスケッチしていく。

書斎から続く次の間へ。ドアが三箇所にあり、玄関ホールと隣の部屋へと三方向に続いて移動できる、いわゆるスイートルームの構成になっている。
これも、ヨーロッパの宮殿のようなつくりだ。

次に現在はチャペルとなっている旧食堂へ。広々と吹き抜けている階段室。2Fに上がり子供部屋、公爵夫人の居室、ベランダへ。
何度もため息が漏れる。
しかし、学校として文化財を大切にしながら非常に綺麗に使用していることにも感動する。やはり建物は大事に使われている時に輝いて見える。


<スケッチ散歩とは?>
ここでスケッチ散歩の意図を再確認したい、NPO法人S.A.I.では不定期だがスケッチ散歩を開催している。
今までに神奈川県の文化課と組んで行った江ノ島や丹沢大山でのスケッチ散歩。あるいは、品川宿や王子飛鳥山など。歴史的な遺産を中心に街を歩きながら、気になったもの面白いと思うことを素早くスケッチしていく。もちろん写真でも良い、がやはり短い時間だがスケッチすることにより対象物が語り出す。

 コルビジェのもとで学び、また考現学の今和次郎の流れを汲む建築家・吉阪隆正がこんな言葉を残している。(引用)

『写真では、相互の寸法的なものをより正確に記録し、撮影者が心にとどめなかったものまで記録してしまう便利さはある。だが一つ一つ手で写していく間の対象物との心の対話はスケッチには及ばない。その対話の中から現に今、目の前にしている対象物は、そのもの自体をこえてさまざまな話題を展開するのである。・・・』
吉坂隆正 今和次郎集4『住居論』解説より

私たち、スケッチ散歩の対象はなんでも良い。上手い下手も関係ない。
一枚仕上げるのにあまり時間はかけない。重要な言葉ならメモを取るように、気になった風景や状況を記述する。

建築から、裏道のゴミ箱、山並みや風景の音や人の会話まで。
パフォーミングアート、セノグラフィーの視点で空間、時間を捉えてみる。
江ノ島でスケッチ散歩を開催した時、参加した若いダンサーはずっと通り過ぎる観光客の会話をスケッチしていた。

例えば、高台から江ノ島神社を見下ろしながらのあるカップルの会話。
男「うーん、ザ ・ニッポンって感じだね。」
女「うん、そうだね。」

日常の何気ない風景や、ちょっとした空間に潜む面白いと思うモノやコトを集めてみる。
パフォーミングアートの視点で。
路上観察学とも似ているが、重要なのは自分の目で見て体験する事。
スケッチするちょっとの時間で対象物と対話する事だ。

建物の場合は特に、スケッチすることは設計者の線をトレースしていく事であり、難しく美しいモノには、現場の職人さんの苦労と誇りが見えてくる。

今回のスケッチの時間は1時間半くらい。
一枚20分から30分くらいで描いていく。
時間がかかる場合は、まず大枠を捉え後で写真などを頼りに詳細を描きこむ。

<スケッチ散歩の成果>
以下、今回のスケッチ散歩で私が描いたもののいくつか。

まずバルコニーのカーブ。
緩やかなカーブが重なりその曲線に対し、床の白黒の45度振ったタイルの貼りわけが、モダンな印象を与える。世界的にはアールデコが流行する少し前の建築だが、コンドルが世界の潮流を意識していた感がある。(14)
(14)2Fバルコニーの優美な曲線(ITARUS)

次に裏階段の手摺りのディテール(15)
(15)裏階段手すりのディテール(ITARUS)
この手摺りも、初めてみるデザインで、シャープで洗練されていると感じて描いてみたが、描いていて気になったのは手摺りの支柱の上の4隅のカットが、なんだかアールデコの雰囲気を持っていると思ったこと。
普段あまり客人の目に触れないところだと思うが、ディテールまで丁寧にデザインされている。

バルコニーの手摺りと柱のディテール(16)
(16)バルコニー手すりのディテール(ITARUS)
柔らかいボーリングのピンのような形をした手すりの柱と雨水を流すため若干傾斜した石板の手すり。採寸してみる。今日はなんだか手すりばかり描いている。


そして中庭から見たバルコニー側の建物全景(17)
(17)中庭からみたバルコニー側の建物全景(ITARUS)
描いている時、ヨーロッパにいる感覚に襲われた。
特にこの外観を描いていたとき。
文化庁の芸術家在外研修員として滞在したベネチアで、毎日一枚はスケッチしようと描いていた感覚をふと思い出した。

細部まで練られたデザイン、その細部が積み重なりながら大きな外観の輪郭と呼応する。
建築はこうである、という信念と伝統のモチーフの見事なコラージュ。
スケッチしていく手がコンドルの思考と手の動きの痕跡を感じ始める。

このスケッチ散歩は上手い下手ではなく、重要なのは描く事により、なにを感じて体験したかだ。手がなにに反応し記憶したかなのだ。

最後にみんなが描いた絵を見ながらフィードバックの時間を持つ。
人により、本当に観ているポイントは違うのだということを実感する。(18)
(18)フィードバックで並べたみんなのスケッチ(ITARUS)

例えば、使用人が使ったであろう裏階段の巾木の曲線を描いていた人もいる。とても優しい曲線だ。私は最初気づかなかったので、もう一度見に行き写真を撮った。(19)
(19)階段の巾木の柔らかな曲線(ITARUS)

フィードバックの後、みんなが発見した面白い箇所をもう一度見にいく時間を持ってみた。自分1人では、発見できなかった面白い事が見えてくる。これもスケッチ散歩の面白みのひとつ。


『洋館のハイライトは、階段ホールと食堂ですね。』と、数々の洋館写真を撮ってきた背景画家さんが言う。
なぜなら、そこは一番来賓の目に触れるところだから。(20)
(20)エントランスホール・階段室(ITARUS)


十字架のモチーフを発見した学生もいた。
清泉女子大学はクリスチャンの大学だが、実はこれは島津家の家紋らしい。(21)
(21)エントランスのステンドグラス 島津家の家紋(ITARUS)

暖炉のレンガに文字が。また食堂の暖炉には島津家の家紋の十字架があった。(22)
(22)食堂の暖炉にみえる面白い文様と家紋(ITARUS)


<柔らかい曲線たち>
書斎の真上が夫人室なのだが、その部屋にこもって描いていた人はこの部屋が優しい曲線に溢れているという。(23)
(23)伯爵夫人室の曲線の窓と金色のカーテンボックス(ITARUS)
天井のモールディングに丸く縁どられたライン。天球のイメージだろうか。
暖炉の柔らかい線。また、この部屋のカーテンボックスだけが金色で装飾されている。
K先生の話しでは、皇后が泊まった事があるという。

<職人の意地>
極め付けは、バルコニーの柔らかい曲線に沿った夫人室の曲面ガラスと窓枠だろう。(24)
(24)バルコニーの曲線(曲面)のガラス(ITARUS)

この当時、ガラスを曲線につくりだす技術があったのだろうか?
驚愕する。

工房からこんな近くにあるのに、一度も足を踏み入れたことが無かった丘の上でのひと時。とても有意義な時間を過ごさせていただいた。

春の陽も暮れはじめ、ジョサイア コンドルの建築をあとにする。
最後にバルコニー側からもう一度建物を観る。(25)
(25)旧島津邸バルコニー側(ITARUS)

20173月25日の五反田に下りてくる。
なんだか狐につままれたような、楽園にいたような、、。
そんな至福の時を過ごした。