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2019/04/04

セノグラフィーの発想2 <幕を巡る考察1>


セノグラフィーの発想2

<幕を巡る考察1>

幕とパフォーミングアート。
緞帳、大黒幕、袖幕、東西幕、文字幕、霞幕、揚げ幕、引き割り幕、ドロップ幕、等々。
舞台には多くの幕が使われていて、またその呼称も用途により様々だ。

その背後に人やモノを隠し、また開けることにより隠れていたモノや人を暴き、出現させることができる。背景にして絵を描けば、ドロップ幕としてトロンプ・ルイユ(だまし絵)的な効果を出せる。幕はいつごろ舞台に登場したのだろうか?常日頃、舞台で幕に接している割にその出自を考えたことがなかったので、今回は数回に分けて幕について思いを巡らしてみたい。



<幕から覗く>

興味深い絵がある。
コメディア・デラルテの演劇空間や中世の野外仮設舞台を調べていたときのこと。
どの絵にも何らかの幕が描かれていて、その幕から必ず誰かが顔をだしているのだ。(1)
(1)Pieter Baltenによるフレーミッシュビレッジのフェスティバルの風景(部分拡大)


<仮設性と幕>
(1)はピーター・バルテンというオランダ・フランドル派の作品の一部。中世の野外仮設舞台の図象として必ず出てくる絵だ。
庶民の日常を切り取るブリューゲルのように、この絵は村のフェスティバルでの賭博や物売り、見世物等、広場の賑わいを描いている。
その一部に仮設舞台が描かれている。
こういった地域のフェスティバルに、演劇が上演されていたというのも興味深い。
(2)
(2)解説つき

内容は社会風刺劇。出稼ぎの亭主の留守の間にあろうことか女房が司祭と不倫。
その現場を帰って来た亭主が見つけてしまった!というシーン。
劇的で一番おもしろい瞬間だ。
この絵は中世の仮設舞台のイメージをとてもよく伝えている。

地上1.5m程の高い舞台とそれを立ち見で取り巻く観客。
その板張りの舞台はエプロンステージのように張り出していて三方から見ることができる。ステージの奥には幕で仕切りがあり、どうやら背後は楽屋のようだ。問題の、幕から顔を出している人物は次のシーンで使う椅子を準備するために幕を開けている様子。
このような仮設舞台は中世以降、ヨーロッパに多く流布していたらしく様々な絵が残されている。

次はルーヴァンでの仮設舞台の例など。(3)
(3)ルーヴァンで行われた『ソロモンの裁き』のための仮説舞台1594年

どれも都市や村の広場に仮設的な舞台を設える事によりパブリックスペースをパフォーミングアートの場に変容させている。
仮設で空間を創り出すというのもパフォーミングアートの特徴だろう。
建築のように何年もその造作物を持たせる事が優先ではなく、解体し移動し再度組み立てる事が可能であるような構造やデザインがセノグラフィー には必要とされる。
サステイナブルな発想だ。
その点からも幕というのは、携帯性にすぐれ柔軟で大きな面積を一瞬に変容させる事が出来る魅力ある素材といえる。

<パブリックスペースとパフォーミングアート>
仮設だから出来る事として演劇の“場”について考えてみたい。
先ほど見てきた絵はどれも、“広場”すなわちパブリックスペースで上演されている。
ロラン バルトが『表徴の帝国』で語るようにヨーロッパの場合、広場はまさに都市の中心でありそこにいけば全てに出会う事ができる充実した場なのだ。
ヨーロッパの都市の広場が持つ公共性がこのような演劇の形式を生み出したともいえる。

一方日本の場合は、“公界”としての河原や神社の境内といった領域がパフォーミングアートを育んだ。辺境・アジールとパフォーミングアートが深く結びついている。
それは村の外れや町の境にあり、神と出会うための境界となる場である。
社会からはみ出した河原者がパフォーミングアートの担い手であった。
幕の話しに戻ろう。

<コメディア デラルテと幕>
イタリアの仮面劇。コメディア・デラルテの仮設舞台の様子を描いた絵では幕はこうなる。
やはり、幕から誰かが顔を出している。(4)
(4)コメディアデラルテについて描かれた絵画
Karel Dujardin, Zanni, Scaramuccia e la ruffiana

舞台の様子だけでなく、観客として集まって来ている人々の表情や年齢や性別。そして周囲の景色まで細部にわたり緻密な情報が描きこまれている。
まさに記録絵画。ジャーナリズムのような側面をもつ。この絵は幕だけでなく様々な情報を与えてくれる。
先程の村祭りの絵とは異なりこれはどうやら街はずれで上演されているようだ。
パブリックスペースとパフォーミングアートの関係を別の角度から読み解く上でも興味深い絵だ。

図解してみたのが以下。(5)
(5)解説入り

<様々な境界と関わるアート>
この絵は古代ローマよりミムス・パントミムスとして引き継がれてきたパフォーミングアートの連綿と続くノマド的な伝統を見せてくれる。
そしてあらゆる“境界=ボーダー”のイメージがここに描かれている。

まず大きくは都市と農村部の境目、まさに都市の城門の一部を舞台の背景と見立て、その前に厚い板と樽で支えられた仮設のステージを張り出す。
都市の壁=既存の建物の外壁との境に幕を垂らす。そしてここでもやはり幕から誰かが顔をだしている!
観客は様々な社会階層とジェンダーを含む。階層の境目、観客と演者の境目、都市と非都市部の境目、様々な境界=ボーダーが描かれている。演劇というアートが多様性を受け入れそれにより支えられれてきたということがこの絵からわかる。

世界の境にあり人は演ずる。

<仮面、剣、楽器>
また、仮面、剣、楽器というアイテムにも注目したい。
これらは古代ローマより必ずパフォーミングアートのイコンとして描かれる題材であることも興味深い。

古代ローマのモザイクタイルに描かれた奴隷と笛吹きの仮面の図(6)

(6)ローマ時代の奴隷と笛吹きの仮面、ローマ、カピトリーノ博物館蔵
そしてコメディアデラルテにおける、仮面と剣と楽器。(7)


(7)部分拡大図

キャラクターと役者の境目を作り出す仮面。
生と死の境目を表象する剣。
ミューズ(芸能の女神)との関わりや欲望を表象し、ディオニソス的な世界を持ちながらも理知的で数学的な世界の両方の境界にまたがる音楽を表象する楽器。
どれもが、両義的な境界性を象徴している。

この中で幕はどのように作用するのか?
両義的で多様性を損なわず、世界を表象すること。幕は特に内と外を柔らかく遮断しながら繋ぐ、ゆるやかな境界をうまく作り出す空間装置でもあるわけだ。





2017/02/24

セノグラフィーってなに? <発想1>

今回は違った角度からセノグラフィーの原初を考えてみたい。

<ネガティヴハンドが伝えるパフォーマンスの痕跡>
何年か前に、知り合いの映像作家にワークショップを依頼したとき、彼が面白い写真を持ってきた。冒険写真家 石川 直樹さんの写真集にあったこの一枚。
オーストラリア アボリジニーによるネガティヴハンド(1)

(1)ネガティブハンド 石川直樹『NEW DIMENSION』より

ラスコーの洞窟壁画と同様、人類が大地に残したアートの痕跡の一つ。
通常、私たちはこれらの作品を原初の絵画作品と捉える。
しかし、映像作家の彼はこのネガティヴハンドがどのように作成されたか、その創作過程に想いを巡らせてみましょうという。ドキュメンタリーの発想だ。
作品は出来上がったものだけでなくその制作過程にこそ謎と面白みがある。
そう言われてよく見ると確かに不思議な構図と組み合わせだ。

手形をみると左右が交差しているし大きさが違う。どうも同じ人の手ではない。

そしてこのベースとなっている岩山は人里離れた砂漠との境にある。エアーズロックに象徴されるように巨大な岩は神秘的な力を秘めている。(2)


(2)エアーズロック(ウルル)http://beautifulplacestovisit.comより

<ネガティヴハンドの作り方>
巨大な岩の地肌をキャンバスとして、手を岩にあてる。そこに口に含んだ赤い砂岩を唾液と混ぜ、霧吹き状に口から吐き出し手にかける。スプレーと一緒だ。赤くなった液体に染まった手をどけると、岩にネガとして手形が残るという仕組み。

<誓いの痕跡としのアート>
この制作過程を想像してみよう。
ここからは完全な妄想だ。
例えば、恋人たち。神奈川の出身なので、こんな例になるが江ノ島や平塚の鉄塔がある小山に恋人達が願いを掛けて金網にロックした南京錠が多数ぶら下がっている。やはりその場所は人里離れたしかしそんな遠くない非日常を感じれる場所。
アボリジニーが手形を残したのも同様のシチュエーションではないか。
恋人達はいつもそこを目指す。

いるのは二人だけ。吸い込まれそうな空に星が輝く深夜か東の空が明るくなりはじめた明け方であろうか。愛を誓いあった二人がその誓いの証しとしてなにか痕跡を残す。
冷たい岩にゆっくりと手を置き互いに見つめる。互いの口から二人の交差した手に向けて、大地の色を含んだ唾液をかける。
なんてエロティックな誓いのシーンだろうか。これはもうパフォーミングアートだ。
大地と天空の間にあり、世界と自分達が交わるその一番美しい一瞬を捕まえようと大地に痕跡を残す。

<環境と対話するアート>
そう妄想するとネガティヴハンドの向こうに、言葉だけでは足りない憶いをなんとか形にして残そうとした人々の息づかいが感じられないだろうか。環境を読み解きイメージを素材、質感を伴った形にしてその場に残そうとする行為。アートの原初。ここにもセノグラフィックなアートの発想の片鱗がある。

<美を探求する心>
建築家ルイス・カーンがこんな事を言っている。
『私はつねに、始原、元初を探し求めます。原初を見いだそうと求めるのは私の性格だと思います。私は英国史が好きでその全集をもっています。しかし第1巻しか読まないし、それも最初の3章か4章を読むだけです。もちろん私のただひとつの真の目的は第零巻を読むことにあります。つまりいまだ書かれざるものを読むことにあります。人にこのようなものを探させる心とは何と不思議なものでしょうか。このような(元初の)イメージが心というものの出現を示唆しているのではないでしょうか。人間の最初の感情は美の感情です。(それは美しいということでも、きわめて美しいということでもありません。)まさに美それ自体です。・・・』 
『ルイス・カーン建築論集』より
今だ書かれざるものを読もうとする知的好奇心原初を探そうとする心こそ美を探求する心だと。

ネイティブアメリカン・ナバホ族の詩にはこんなのがある。
『Beauty before me Behind me Below me Above me All around me In beauty, I have spoken.  』 
『Native American Wisdom』より
『美が私の前にある、私の後ろにある、私の下に、私の上に。こう話している内に、私は美に囲まれている。』

特殊なことではない。誰もが持っている感覚。なぜかわからない、しかし人はそれに惹かれる。それを意識し探求しようと思う心がわき上がると今度は世界が動きだし、語りだす。

参考文献
石川直樹『NEW DIMENSION』
ルイス・カーン『ルイス・カーン建築論集』
『Native American Wisdom』