2017/05/03

セノグラフィーってなに?<歴史7>

『古代ギリシャのシーニックデザイン2』



<歴史4>で古代ギリシャのシーニックデザイの一つとして、デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)の登場のためのメカーネについて触れた。<歴史4>参照
今回はセノグラフィーの語源ともなっているスケーネおよびロゲイオン(ステージ)の役割と発想をみていきたい。ロゲイオンという舞台エリアの誕生に伴い、その背後を担う部分が現れる。それをスケーネという。背景やドロップ幕としとの、ある種2次元的な面=スクリーンの原形がここにある。

ギリシャ劇場の原初の形態がどのようであったのかは、やはり想像の域をでないが、時代がくだりヘレニズム期のギリシャ劇場の形は以下のようだ。
ウイトルウイウス『建築書』より(1)

(1)ヘレニズム期のギリシャ劇場
スケーネ(スカエナ)とロゲイオンに注目
オルケストラの後方には、ステージの役割をになったロゲイオンとその背後の壁面と空間であったスケーネ(スカエナ)がある。スケーネは列柱を伴っている。ロゲイオンの奥行きは2~3mしかないが間口は広い。ロゲイオンの上には2~3人の俳優が立ち、オルケストラを占めるのはコロス。舞台上は廊下のように横に広いわりには人が少なく、閑散とした状態だったと思われる。

セノグラフィーの歴史を考える上で重要な参考図書である『Making the Scene』では、ディオニソスの劇場(アテネ・パルテノン神殿下の劇場)の復元図として、ロゲイオンやスケーネがまだなかった頃の劇場空間の原型の一つとして、以下のような図を挙げている。(2)
(2)ディオニソス劇場の復元平面図(Making the scene)
円形に広がるコーラ(コロスの場)を中心に
観客のエリアは図の上方にある、舞台側には上手の方に古い神殿がある


もう一枚のイラスト(3)
(3)上記の考古学的な発掘要素を元にイメージ復元した図(Making the scene)

コロスがいた場所、中央の円形部の背後には祭壇と神殿がある。
上手のスロープからの導線が、奥行きのない間口の広いステージへのではけ口になっていったと考えられる。
考古学的な調査に基づいた復元であろうと思われるが、現存するカタチへの整合性を意識した復元イラストという感じもある。(中央に演台のようなステージまである。またオルケストラの中心に祭壇がある。)

そして、もう少し時代が下ったころの復元イメージ図がこれ。(4)

(4)小さなステージ(ロゲイオン)と上手、下手に不思議な穴とドーム等(Making the scene)

この図に従えば、神殿の要素である柱とその間が作りだす建築的単位が、スケーネとなり、神殿の基壇がロゲイオンとなったとみる事ができる。祭壇と神殿の1セットの発想がそのまま、オルケストラの背後に持ち込まれたようだ。(舞台は擬似神殿?)
不思議な要素は下手にあるシーンハウスと上下にある数個の穴だろう。
(穴はScenic holesと書かれている)
『Making the scene』の解説にはこうある。

『多くの学者は、初期のフェスティバルでは舞台奥は演劇的な行為の為に使われなかったと考えている。パフォーマンス·スペースの近くがスケネまたはシーンハウスであった。文字通りの意味は「小屋」または「テント」を意味する。そこは俳優がマスク(あるいは衣裳)をチェンジする為に退場する場所でキャラクターを捨て他の者に換わる場所であった。スケネは、多くの観客の視線の先にある環境をブロックするほど高くはなかった。』

<ロゲイオンの成立>
ロゲイオン(ステージ)が成立した背景には、戯曲の構造の変化が関係していると言われている、ギリシャの三大悲劇詩人、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス。
おおざっぱだが、三人の戯曲のスタイルの違いにギリシャ演劇の変遷が重なっている。

・アイスキュロス(BC525-456)
  • テーマ=人と神の関係
  • 主な作品=オレステイア3部作
  • 2人目の演者の登場(それ以前は俳優1人とコロス)

・ソフォクレス(BC496-406)
  • テーマ=無情な運命の中の人間の苦しみと知恵
  • 主な作品=オイディプス、アンティゴネー
  • 3人目の演者の登場
  • skenographia(スケノグラフィア→セノグラフィー)を最初に導入したとされる(アリストテレスによる)

・エウリピデス(BC485-406)
  • テーマ(人間心理の観察と描写)
  • 主な作品(トロイアの女、バッカスの信女)
  • デウス エクス マキナ(機械仕掛けの神)を多用

ギリシャの演劇は、大ディオニューシア祭において、スポーツ等の競技と同様に競技形式で行われ、同じ主題や題材をいかに描くかが競われ、多く賛同を得たものがその栄誉を称えられた。大衆・群衆が評価し勝敗が決まるということが、ギリシャ演劇の方向性と変遷に大きく作用していたわけだ。


<スケーネの役割>
当初、演じられる内容はコロスによる歌・踊り・語りを伴った祭儀的要素が強かったが、時代が下ると共にコロスの重要性は減り、主題は人間を中心とした、よりドラマ性の強いものに移る。それに伴い2~3の登場人物による空間への集中力や音響効果を増す為に、ロゲイオンというステージとスケーネという背景が必要とされたのかもしれない。(5)
(5)スケーネと両翼の部分(パラスケニオン)を伴ったイメージ(making the scene)

この図も『Making the scene』からの抜粋。上のイラスト同様ディオニソスの劇場の姿。
この図を拡大してみるとわかるが、スケーネの上に人がいる。
それらに関しては、以下Making the sceneからの抜粋(翻訳はNPO/S.A.I.)


『学者は通常、スケネは紀元前458年までは劇的な行為において役割を果たしていなかったと仮定している。アイスキュロスのアガメムノンの冒頭では、物見の男が宮殿の屋根の上に腰掛けながら自身をこう表現しているシーンがある。』

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神様方にもお願いしてきたことよ、こんな骨折りはもう真っ平だ。

まる一年の間も見張りをつづけ、アトレウス家の館の屋根に抱かれて、

犬みたように、臥せるなどというのはな。夜出る星の数々も、

もうすっかり寝込んでしもうたわ。

しかもまだ松明の合図を見張り続けてゆくとは。

トロイアの郷からの報せをもたらす火の櫂(かが)よい、

攻め取ったという報せをな。
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『これが劇場の構造が舞台美術の要素として使われていることを示唆する現存する劇の中の最初の具体的な引用である。これがそのような構造の最初の使用であったが、それがスケーネであったかは確認できていない。』


<スケノグラフィア>
アリストテレスはskenographia(スケノグラフィア→セノグラフィーの語源)を最初に導入したのは、古代ギリシャの三大悲劇詩人ソフォクレス(BC496-406)だとしている。
スケノグラフィア。それは単に背面を飾る絵だけではなく絵や立体・空間等、スケーネにある種視覚的な特徴ある表象を与えたということだろうか。


<スケノグラフィアの最初の形?>
『Making the scene』では、ソフォクレスのスケノグラフィアの使用より前に、アイスキュロスの作品において、アテネの画人アガサルカスが絵を描いていたということをウイトルウイウスの『建築書』から引用している。(第7書序11より)


『~実に、まずアテネではアガサルカスがアイスキュロスの指示に従って悲劇の舞台をつくり、それに関する覚書を残しました。それに動かされてデモクリトスとアナクサゴラスも同じ事項、すなわち不確かなものから確かな像が舞台の背景画の中に建物の外観を与え、凹凸のない平らな面に描かれたものが、あるものは引っ込みあるものは突出して見えるためには、ある場所が中心と定められた場合、描線は自然の理に従って眼の矢線と放射線の延長にどんなふうに対応すべきであるかについて書き記しました。 』

実際にスケーネに描かれた背景画すなわちスケノグラフィアがどのようなものであったかは定かでないが、ローマ時代に描かれた壁画にそのイメージを探ることができる。

次回、古代遠近法について見ていきながらスケーネに描かれた絵や空間がどのようであったかを探っていきたい。





参考文献
『making the Scene』
ウイトルウイウス『建築書』

2017/04/17

セノグラフィーってなに?<歴史6>

『迷宮図と古代ギリシャ劇場、あるいは、迷宮舞踏とサミエル・ベケットの『クワッド』』


前回、アリアドネの糸と迷宮図を巡り、セノグラフィーとコレオグラフィーの関係を探ってみた。今回は、迷宮図の作図方法から古代ギリシャ劇場との関係性、その空間に隠された正方形の秘密についてサミエル・ベケットの『クワッド』の図式等から探ってみたい。
(サミエル・ベケット)


迷宮図をもう一度みてみよう。(1)
(1)クレタ型迷宮図(Wikipedia)

<迷宮図のイメージ>
最初に迷宮図を見た印象は、
  • 迷路とは違う
  • 規則性があるが、正円ではなく歪んだ円の形をしている
  • フリーハンドでしか描けないのか?
  • 古代の人は、コンパスのような単純なもので描いたのではないか?
といったことだった。

そして、なんだか脳の図のようだなとも思った。(2)
(2)脳の断面(Wikipedia)

迷路の回路を思考の回路だと思うと、極端に右に振れた後、また左に振れる。右脳と左脳を行き来する思考のようだと。
入り口と出口のあたりはちようど脳幹にあたる。
図式化され空間化された思考。生と死を反復する構図。
迷宮をたどる者は左右だけでなく上下、内外に何度もゆさぶられる。

<迷宮舞踏・鶴の舞踏>
迷宮舞踏と呼ばれる鶴の舞踏の動きを想像してみる。
アリアドネの糸というコレオグラフィーに従い動く人々の軌道である。
円弧の部分では、フォークダンスのように接する人と逆方向にすれ違うが、中心の下、脳でいえば脳下垂体の部分では平行に左右対称に移動する。(3)
(3)アリアドネの糸の動き(矢印が進む方向)(ITARUS)

この振り付けはなんだろうか?いつかワークショップで実際にこの動きをシュミレーションしてみたい。
ヨーロッパに古くから伝わりフォークダンスの原型とも言える、メイポールの祭りのダンス。これも迷宮の舞踏のイメージと重ならないか。(4)
(4)Maypole Dance
http://occultamerica.blog.so-net.ne.jp/2008-10-10 より


中央に柱を立てそこから伸びたロープ(紐)を持ちながら柱の周囲を巡る。
ここにもサークルという迷宮の図式とロープ(リボン)というアリアドネの糸のイメージが投影されている。


<南方曼荼羅>
知の巨人、南方熊楠の絵に不思議な一枚がある。南方曼荼羅と呼ばれる絵だ。(5)
(5)南方曼荼羅図


迷宮図はこの絵とも似ていると思ったが、よくよく見直してみると熊楠の絵は放射状にも線が出ていて、曲線と交わったりしている。そしてそこに思考の交差点・翠点というものを構想しているらしい。こちらの図式の方がより脳みそに似ている。あるいは迷宮図は正面から見た脳のイメージ。南方曼荼羅は側面から見た脳のイメージ。

南方曼荼羅図とは?
http://japanese.hix05.com/Minakata/minakata105.mandara.htmlより引用
この図は、民俗学者の間で「南方曼荼羅」と呼ばれているものである。この奇妙な図を南方熊楠は、土宜法龍宛明治36年7月18日付書簡の中で描いて見せた。この書簡の中で熊楠は、例の通り春画やらセックスやらとりとめのない話題に寄り道をした挙句に突然仏教の話に入るのであるが、この図はその仏教的世界観(熊楠流の真言蜜教的な世界観)を開陳したものとして提示されたのであった。(中略)
熊楠は、これらの線は事理を現しているという。事理とはものごとの筋道と言った程度の意味に考えてよい。この世界と言うものは様々な事理からなっている。それらの事理は互いに交差しあったり、あるいは相互に離れていたり、もつれあったり、絡みあったりしている。図でいえば、各々の線の配置が様々な事理の布置を現しているわけだ。
たとえば図の(イ)という点では、多くの線が交叉している。熊楠はこれを萃点(すいてん)と呼んだ。萃点は多くの事理が重なる点だから、我々の目につきやすい。それに対して(ハ)の点は二つの事理が交わるところだから、萃点ほど目立たぬが、それでも目にはつきやすい。(ロ)の点は(チ)、(リ)二点の解明を待って、その意義が初めて明らかになる。(ヌ)はほかの線から離れていて、その限りで人間の推理が及び難いが、それでも(オ)と(ワ)の二点でかろうじて他の線に接しているところから、まったく手掛かりがないわけではない。だが(ル)に至っては、ほかの線から完全に孤立している。したがって既に解明済みの事柄から推論によって到達するということが困難なわけである。
このように熊楠は、世の中の成り立ちを事理の組み合わせと見、それを人間の認識能力とのかかわりにおいて、体系づけたのであった。


まさに、思考のイメージを図式化したものだ。
弘法大師・空海が曼荼羅のイメージを立体空間で表象したように、観念、思考をビジュアルアナロジーとして表象する系譜がここにもある。
南方曼荼羅はしかし、曲線の他に多くの放射的な線があり、交わるポイントで脳のシナプスが繋がるように様々な思考やイメージが交わっている。

一方、クレタ型迷宮図を歩くアリアドネの糸のラインは、交わらない。一筆書きのラインだ。(6)
(6)アリアドネの糸のラインは一筆書き(ITARUS)
しかし、地(ネガ)である迷宮図の方は中央近く、脳幹的な場所で一カ所交わっている。
そしてアリアドネの糸である舞踏のラインは一筆書きの一本の線であるのに対し、迷宮図の方は2本の線で構成されている。(7)
(7)迷宮図の2本のラインと交差ポイントに注目(ITARUS)

このクロスするあたりに、迷宮図を紐解くヒントがありそうだ。

<迷宮図の描き方>
前回も引用させていただいた、中島 和歌子氏の『迷宮(Labyrinth)図像群に関する一考察』に迷宮図の描き方というイラストが載っている。
まずはこれを頼りに描いてみる。(8)
(8)クレタ型迷宮図の描き方
『迷宮(Labyrinth)図像群に関する一考察』中島 和歌子より

以下、この図を参照に私なりに描いてみた時の描き方。

1/中心となるクロスポイント(正十字)を描く。
2/そのクロスポイントが内接する一辺がaの長さの正方形を描く。
3/上辺の中心から1/8だけ左に行った点を中心1とした半径1/8aの円弧を描いていく。
4/中心1から半径1/4aだけ足されていく円弧を描いていく。
(9)

(9)迷宮図の描き方NO.1

5/正方形の各々の頂点(中心2~5)からも円弧を描く。(円弧の半径が迷宮の道幅となる。)(10)
(10)迷宮図の描きたNO.2



描いてみて、面白いなと感じたのは、これだけ曲線の集合なのに四角形がベースにあるということ。

始めに正方形が必要なのだ。
それを言わば手掛かりにして各頂点を中心とした円弧と、上辺の中心から一辺の長さの1/8移動した点を中心とした円弧の集まりで出来ている。前回示した図のように。

<方円の関わり>
迷宮図の円弧の規則性の根拠は、四角形の頂点との関わりで現れるのだ。
ここにもネガとポジの関係性がある。
前回触れたように迷宮図=ネガは、アリアドネの糸のライン=ポジを出現させる隠された空間装置(セノグラフィー)であり、迷宮図として現れてくるのは円弧の集合だが、
その背後にある形、いわば#オカルトラインは正方形なのだ。

#オカルトラインとは?
透視線と呼ばれるもので、実際には見えない線。遠近法等を描く時の隠れた線の事。
一点透視図法の場合、観察者から対象物までの透視線が中央の消失点に集まる。その透視線を指す。
見えない”糸”すなわちゴーストに操られ、人間の視覚空間が出来上がっているというイメージが伝わってくる言葉だ。


<隠された四角形>
サミエル ベケットの作品に『クワッド/Quad』というのがある。
四角形の4つの頂点にそれぞれ人がいて、四角形の辺と対角線上を動くという作品だ。
コンテンポラリー・ダンサー/山田 せつ子さんがある作品でこのイメージを使用していた。

これには単純な2つのルールだけがある。
ひとつは、頂点に到着したら、必ず45度の角度で左にいく。
もうひとつは、対角線上ですれ違う時必ず右に避けて衝突は退避する。(11)
(11)『クワッド』の歩行順路図
http://web.waseda.jp/rps/webzine/back_number/vol021/vol021.htmlより


この作品はこの単純な2つのルールだけで、言わば舞踏のように振り付け(コレオグラフィー)られた演劇なのだ。
俳優の動きが空間の規則性を出現させる。
これもひとつの『迷宮舞踏』と言って良いのではないか。
『クワッド』は、迷宮図の隠れた線、オカルトラインのトレースなのかもしれない。


<ギリシャ劇場の220度と迷宮図>
迷宮図とギリシャ劇場を重ねてみる。
1回目と2回目で扱ったように、ギリシャ劇場の原初には、ダイダロスのいくつかの神話が関わっている。
迷宮と劇場は離れがたくその根源に共通の根をもっている。

重ねてみると中心近くで絶妙にパフォーマーの動きが変化しダンスのムーブメントの規則性の変わるポイントと220度のラインが重なる。(12)
*古代ギリシャ劇場の図式については<その4>を参照。
(12)古代ギリシャ劇場と迷宮図の関係


アリアドネの糸に導かれた動きは実は正方形の内部では、左右対称の動きになり、円弧の部分でのすれ違う動きとは異なる。(13)
(13)アリアドネの糸(鶴の舞踏)の正方形内での動き→左右対称性に注目

1回目で見てきたように原初のパフォーマンス空間・コーラが完全な円だったとすれば、
円弧の集合である迷宮を形作るラインとその振り付けが、客席の限界線の角度と関わりがあってもおかしくない。正方形が見えないラインで客席が限界付けられている。

そして、ギリシャ劇場のオルケストラの部分、あの完全な円形の背後には正方形のオカルトラインがあるのかもしれない。
そして、迷宮舞踏は実は円に隠された四角形に規則づけられており、ベケットの作品『クワッド』も、反転したギリシャ劇場のセノグラフィーを浮かび上がらせる『もうひとつの迷宮舞踏』と言って良いのではないか。


< ウィトルウイウスの語るギリシャ劇場>
ギリシャ劇場のあの円形の背後に正方形が隠されている?というのには訳がある。
古代ローマの建築家・ウィトルウイウスの『建築書』にギリシャ劇場の作図法の項目があり、そのことが書かれているのだ。
ギリシャ劇場の形態の背後には、1回目で見てきたような環境、身体の知覚からのプランニングの他に星座との関わりや数学的法則性があるという。(図14と解説)
(14)ギリシャ劇場の作図の方法

ウイトルウイウス建築書 第7-1より
 『ギリシャ劇場ではすべてがこれと同じ手法でつくられるべきでない。というのは、まず底の円において、ラテン劇場(ローマ劇場)で四つの正三角形の稜が円周線に接しているように、ギリシャ劇場では三つの正方形の稜が円周線に接し、そしてその正方形の一つの辺はスカエナに最も近く、それが円弧を切り取り、その線上にプロースカエニウムの縁が指定されるからである。そして、この円弧の端にこの方向と平行な線が引かれ、それにフローンスカエナが定められる。オルケーストラの中心を通ってプロースカエニウムの方向に線が引かれ、それが左右で円周線を切り取るところ半円の両角に中心点が印しづけられる。そして右にコンパスが置かれて左までの間隔で円がプロースカエニウムの左の部分に向かって描かれる。同じく、コンパスが左の角に置かれてプロースカエニウムの右の部分に向かって円が描かれる。』 2 『こうして、ギリシャ人は3つの中心を使ったこの作図法によって(ラテン劇場よりも)もっと広いオルケーストラともっと後退したスカエ ナともっと狭い幅の高座を持つ。かれらはこの高座を悲劇および喜劇の俳優たちがこのスカエナで演技するという理由で、ロゲイオンと呼 ぶ。・・・・』



このギリシャ劇場の作図の前にウイトルウイウスはラテン(ローマ)劇場の作図の方法を示している。(図15と解説)
(15)ラテン(ローマ)劇場の作図の方法
ウイトルウイウス『建築書』第6章-1より
『劇場そのものの形は次のように造られるべきである。底面の周に予定されれいる大きさの円周線がコンパス(の一脚)を中心に置いて引かれ、その中に円の縁に触れる四つの等辺三角形が等間隔に描かれる。これによってはまた天空12座の星学においても音楽から借りた諸星の関係が割り付けられる。これらのさん関係のうちその辺がいちばんスカエナに近いこのが円の弧を切り取るあたり、そこにスカエナの前面が限られる。そしてこの場所から中心を通って平行線が引かれ、それがプロスカエニウムの高座とオルケストラの場を区分する。』


<四大元素・五大思想と立体>
このように古代の劇場には宇宙の原理と幾何学的、図象的発想が関わっている。
球体やプラトン立体とよばれるような単純な多面体と宇宙の原理を関係づける思想は、ギリシャだけでなくインド仏教や中国の宇宙観にもある。

方形、円形、三角形等単純な立体を重ねた五輪の塔と五大思想、曼荼羅図、仏塔(ストウーパ)の意味については、『空海 塔のコスモロジー』という面白い本があり、また別の回で触れたい。

ここでは最後2つほど、他に迷宮の図象的な類推(ビジュアル アナロジー)として考えられるものをあげたい。

一つはダンテが『神曲』で構想した地獄。(16)
(16)ボッティチェリ作 ダンテ『神曲』の地獄の図 1490 (Wikipedia)


またインドではこの正方形版の階段井戸というのがある。(17)
(17)インド 階段井戸の例
http://www.wastours.jp/tour/pickup/asia/1201_01.htmlより

これらの例は迷宮の図式を平面だけでなく、上下方向の立体としてもも展開した空間構想といえるだろう。
そしてどれもがやはりそこに行き、引き返して来るというムーブメントやパフォーマンスと関わっている。

方形と円。単純な形体がパフォーミングアートの原初に関わっていることだけは確かなようだ。



参考文献 ウイトウイルス「建築書』



2017/03/30

セノグラフィーってなに?<スケッチ散歩4>

<旧島津公爵邸スケッチ散歩>

春というには、まだ寒い日。
時折晴れ間が覗く。
五反田のごみごみとした喧噪が嘘のようだ。通称ソニー通りを渡り島津山の方へ。
300mくらい緩やかな坂道を登る。
今はもうソニーの本社や町工場はほとんど移ってしまい、高層マンションや巨大オフィスビルがひしめく。

私たちの工房、六尺堂があるエリアだけが高度経済成長を牽引した五反田の工場街の気配を残すのみとなった。そこから歩いて5分ちょっと。
昭和のその時代よりももっと前、大正初期、明治の時代の気配を色濃く残したそんなエアースポット。
旧島津公爵邸を訪ねた。

<ジョサイア コンドル>
旧島津公爵邸。現在は清泉女子大学の本館として使用されている建物。
設計はジョサイアコンドル(1)

(1)ジョサイア・コンドル(1852-1920)(Wikipedia)
お雇い外国人として来日し東京大学の前身、工部大学校の教授として日本の近代建築の基礎を位置づけたイギリスの建築家だ。
弟子に東京駅を設計した辰野金吾や片山東熊がいる。

今回のこのスケッチ散歩は、清泉女子大学、英文学の研究者、K先生のご協力を得て実現した。

<校門前にて>
春の日の昼下がり。背後にこんもりとした大きな樹木生い茂る丘を擁した校門前に集合する。総勢12名ほど。
舞台美術を勉強している学生や、演劇制作者、背景画家、俳優とNPO法人SAIのメンバー。
女子大とは不釣合いなメンツがバツ悪そうにそわそわと集まる。
守衛室前を通り学内へ、ちゃんとパスをもらう。なんだか一安心。

<導入>
今は清泉女子大学として使われているが、既に守衛室からの急な坂道のアプローチが旧島津邸の気配を伝えてくる。
現在の守衛室の反対側には、昔日の門番小屋とおぼしき建物が残り、その脇には今は使われてない井戸がある。なんだか空気の密度が変わっていく。

五反田・目黒川の河岸段丘のハケ地に位置する島津山。井戸があるということは此処には湧水が出ていたのかも知れない。実際同じような地理的位置関係にある池田山(旧岡山池田藩下屋敷跡)には、見事な池があり風水的には江戸城の龍穴の位置にあたるという。

「昔のお屋敷は、門から建物が見えないように配置されていたようですね。」
とK先生が解説してくれる。

そういえば、同じコンドルの設計で、城南五山#の一画を占める品川八ツ山の三菱開東閣も、鬱蒼とした樹木に囲われ門からは中の様子が伺えない。

#城南五山とは?
江戸時代、風光明媚な地として知られた、高輪台から品川御殿山までの丘陵地の総称。徳川家光の鷹狩りのための御殿があった御殿山をはじめ、諸大名の下屋敷があった。海を見下ろす段丘沿いの高台に、明治以降、財閥や貴族が邸宅を構えた。花房山、池田山、島津山、八ツ山、御殿山で城南五山と呼ばれるようになる。城南五山という呼称は、江戸時代にはなく近代以降に通称されうようになったらしい。江戸城を中心としてみたとき、愛宕山、高輪台等東側の高台は地形的にみても京都五山の東山のイメージが投影されている。江戸時代の浮世絵には品川御殿山が、江戸五山の一つとして描かれている。(2)


(2)勝川春潮 『江都五山 御殿山』

<坂とカーブを伴った動的なシークエンス>
校門を入るとすぐにかなり急な坂道を登る。左手上、丘の上にある大木が影を作っている。その坂道を登りきるあたり、左カーブの先にお屋敷本館の建物が現れてくる。
背の高い樹木がプロセニアムのように額縁を作っている。
傾斜とカーブ、3次元的な身体感覚を伴った視覚。期待を高める動的で劇的なシークエンスのデザインだ。(3)
(3)樹木により縁取られた旧島津邸本館(ITARUS)

凄いねー!うわっー!うーん!
連れだって歩く口々に感嘆の声があがる。坂を登り切り回りこむようにして正面玄関の前へ。
しばし佇む。

<ファサード>
これがジョサイア コンドル設計の旧島津公爵邸か、、。

私がまずエントランス外観で気になった点は以下。
・重厚だが、軽やかで品のあるデザイン。
・灰色の石と若干クリーム色がかったレンガが華やかな印象を与える。
・派手すぎず、美しい幾何学的な線で構成されたルネサンス様式のデザイン。(4)
(4)旧島津邸エントランス側ファサード(ITARUS)
1Fの窓のアーチは楕円ではなく正円で、その上2Fと屋根のペディメントは三角形。バロック時代が好んだ楕円や、ねじれや歪みのない、シンプルで品格のある単純な図形。プラトン立体を用いたルネサンス特有の形だ。

大きなシルエットとしては左右対称に作られたファサード(正面の顔)だが、右側は内に階段室を控え、大きなステンドグラスがはめこまれている。(5)
(5)正面右手のステンドグラスの窓(内側に階段室)(ITARUS)
左側は、一階の窓フレームは正円、2Fの窓フレームは三角形となっておりルネサンスの時代、古代ローマ、ギリシャへの憧憬と研究が達成した建築の歴史的なオーダーに則ったデザインになっている。
(6)
(6)正面左手の窓の縁取り装飾(ITARUS)

この窓のデザインに、日本人の擬洋風建築とは異なりトラディショナルな建築の技法を熟知していたコンドルならではのセンスが感じられる。

<ダブルオーダーの柱>
正面車寄せのポーチは上にバルコニーを載せた軽やかだが品格のあるデザイン。
さらに、シンプルなドーリア式(トスカーナ式)の付け柱は角柱に半円をなして取り付き、もう一本は独立して立つ二本の連続する柱になっている。(7)
(7)エントランスポーチの2重の柱

後ほど見ることになる庭側のバルコニーでも採用しているダブルオーダー#の美しいデザインだ。

#ダブル・オーダーとは?
ルネサンスの時代、ミケランジェロが好んだデザインである。構造的には1本の柱でも済むが、2連の柱を用いてファサードの輪郭を際立たせる。(8)


(8)ミケランジェロ サン・ロレンツオ聖堂ファサード案
繰り返すモチーフが空間にリズムをもたらすと共に、独立した円柱が彫刻のように軽やかに柱のシルエットを浮き立たせる。
また、ミケランジェロはジャイアントオーダーという、階層を貫く一本の柱のデザインも好んで使用している。共に空間にリズムとアクセントをもたらす。(9)

(9)ミケランジェロ カピトリノー広場(ローマ)


<島津邸の地形>
話しを旧島津邸に戻そう。
まだ、建物の中に入ってさえいない。
旧島津邸。
もと、伊達藩の下屋敷があった目黒川の河岸段丘、高輪台地の一画に位置している。
古地図と照らし合わせると屋敷があるエリアが見事に重なる。(10)
(10)江戸古地図との比較


地形図での島津山の位置。高輪台地と目黒川が作る南斜面、海への眺望の開けた場所だということがわかる。(11)

(11)地形図にみる島津山の位置

建造当初は居室から品川の海が望めたという。現在は品川駅のニューシティのビル群が連なった壁のように遠くにみえている。

島津忠重の袖ヶ崎本邸としてコンドルが設計。何度かの設計変更を受けて大正5年(1916)に竣工。コンドルが得意としたコロニアルスタイルのベランダを持ち、軽やかで品格のあるルネサンス様式の建築といわれている。

この近くには、コンドル設計の三菱開東閣や三井迎賓館が残っている。
(共に一般には開放されていない。)

<高輪台地のコンドル建築>
この3つの共通点を考えてみた。どれも高輪台地、地盤の安定した山の手の地にある。だからだろうか、関東大震災でビクともせず、往時の姿を保っている。
また、どれも江戸時代から風光明媚な地として有名だった高輪、品川の地にあり、遠く千葉房総半島と三浦半島を両袖に見立てた江戸前の美しい袖ヶ浦(江戸湾の昔の呼び名)の景色を眺める事が出来たようだ。(11)

(11)御殿山花見の図にみる江戸湾の美しい眺望
どの建物にも美しいバルコニーが取り付いているのは、コロニアルスタイルという事以上に、美しい風景との関係で建物を捉えていた結果ではないだろうか。(12)(13)

(12)三井倶楽部迎賓館のバルコニー
(13)三菱開東閣のバルコニー

<エアーポケットのような庭>
そわそわとうろうろとする私たちに戸惑うK先生にいざなわれ、バルコニーの方から建物の中へ。と、入る前に今度は目の前に広がる庭園に見惚れる。

もとは、大きな池があったという。
それを埋めて中庭が作られた。角には伊達藩の和風庭園であった名残りとおぼしき灯篭や石組みが残されている。

ぼーっと佇んでいると、時間と空間の間隔がおかしくなってくる。
すぐ下には五反田の喧騒が広がっているはずなのに、この丘の上には静かな時間が流れている。
タイムスリップした感覚。

江戸の気配を消さず、その時空に重ねるように大正時代に建てられた洋館。ここだけ時間が止まったままのような時空のスポット。
そんな気配を抱きつつ洋館の中へ。

<やっと建物の中へ>
最初に案内して頂いたのは、現在の大学の先生たちの会議室。昔の主人の書斎の部屋である。(配置図)
(配置図)清泉女子大学HPより


ここでも入った瞬間に感嘆の声があがる。
ファーストインプレッションが大事なのだ。
感覚を開いて対象物を体験する。
住んで生活していた人々の動きや気配を想像しながら。

<書斎>
天井が高い。扉もでかい。そしてその扉枠のデザインの立派な事、、。ため息がでる。
暖炉も素敵だ。内装の彫刻も細やかでシャープだ。
大変な建築の中に入ってしまった!と感じる。
失礼だか、なんちゃって洋風の建築と比べられない、品格がある、、。と感じる。
いきなりヨーロッパに来たみたいだ。
五反田の繁華街の裏手に本物のヨーロッパの時空が隠れていたとは。

<いざスケッチへ>
この部屋に荷物を置き、いよいよスケッチ散歩へ。
まず、参加者に簡単なコンドルの紹介と東京で見られるコンドル建築の写真や、ネットから探してきたこの建物の初期設計図のドローイングなどを渡す。

K先生の案内で建物の中を一回りしてから、気になる箇所をスケッチしていく。

書斎から続く次の間へ。ドアが三箇所にあり、玄関ホールと隣の部屋へと三方向に続いて移動できる、いわゆるスイートルームの構成になっている。
これも、ヨーロッパの宮殿のようなつくりだ。

次に現在はチャペルとなっている旧食堂へ。広々と吹き抜けている階段室。2Fに上がり子供部屋、公爵夫人の居室、ベランダへ。
何度もため息が漏れる。
しかし、学校として文化財を大切にしながら非常に綺麗に使用していることにも感動する。やはり建物は大事に使われている時に輝いて見える。


<スケッチ散歩とは?>
ここでスケッチ散歩の意図を再確認したい、NPO法人S.A.I.では不定期だがスケッチ散歩を開催している。
今までに神奈川県の文化課と組んで行った江ノ島や丹沢大山でのスケッチ散歩。あるいは、品川宿や王子飛鳥山など。歴史的な遺産を中心に街を歩きながら、気になったもの面白いと思うことを素早くスケッチしていく。もちろん写真でも良い、がやはり短い時間だがスケッチすることにより対象物が語り出す。

 コルビジェのもとで学び、また考現学の今和次郎の流れを汲む建築家・吉阪隆正がこんな言葉を残している。(引用)

『写真では、相互の寸法的なものをより正確に記録し、撮影者が心にとどめなかったものまで記録してしまう便利さはある。だが一つ一つ手で写していく間の対象物との心の対話はスケッチには及ばない。その対話の中から現に今、目の前にしている対象物は、そのもの自体をこえてさまざまな話題を展開するのである。・・・』
吉坂隆正 今和次郎集4『住居論』解説より

私たち、スケッチ散歩の対象はなんでも良い。上手い下手も関係ない。
一枚仕上げるのにあまり時間はかけない。重要な言葉ならメモを取るように、気になった風景や状況を記述する。

建築から、裏道のゴミ箱、山並みや風景の音や人の会話まで。
パフォーミングアート、セノグラフィーの視点で空間、時間を捉えてみる。
江ノ島でスケッチ散歩を開催した時、参加した若いダンサーはずっと通り過ぎる観光客の会話をスケッチしていた。

例えば、高台から江ノ島神社を見下ろしながらのあるカップルの会話。
男「うーん、ザ ・ニッポンって感じだね。」
女「うん、そうだね。」

日常の何気ない風景や、ちょっとした空間に潜む面白いと思うモノやコトを集めてみる。
パフォーミングアートの視点で。
路上観察学とも似ているが、重要なのは自分の目で見て体験する事。
スケッチするちょっとの時間で対象物と対話する事だ。

建物の場合は特に、スケッチすることは設計者の線をトレースしていく事であり、難しく美しいモノには、現場の職人さんの苦労と誇りが見えてくる。

今回のスケッチの時間は1時間半くらい。
一枚20分から30分くらいで描いていく。
時間がかかる場合は、まず大枠を捉え後で写真などを頼りに詳細を描きこむ。

<スケッチ散歩の成果>
以下、今回のスケッチ散歩で私が描いたもののいくつか。

まずバルコニーのカーブ。
緩やかなカーブが重なりその曲線に対し、床の白黒の45度振ったタイルの貼りわけが、モダンな印象を与える。世界的にはアールデコが流行する少し前の建築だが、コンドルが世界の潮流を意識していた感がある。(14)
(14)2Fバルコニーの優美な曲線(ITARUS)

次に裏階段の手摺りのディテール(15)
(15)裏階段手すりのディテール(ITARUS)
この手摺りも、初めてみるデザインで、シャープで洗練されていると感じて描いてみたが、描いていて気になったのは手摺りの支柱の上の4隅のカットが、なんだかアールデコの雰囲気を持っていると思ったこと。
普段あまり客人の目に触れないところだと思うが、ディテールまで丁寧にデザインされている。

バルコニーの手摺りと柱のディテール(16)
(16)バルコニー手すりのディテール(ITARUS)
柔らかいボーリングのピンのような形をした手すりの柱と雨水を流すため若干傾斜した石板の手すり。採寸してみる。今日はなんだか手すりばかり描いている。


そして中庭から見たバルコニー側の建物全景(17)
(17)中庭からみたバルコニー側の建物全景(ITARUS)
描いている時、ヨーロッパにいる感覚に襲われた。
特にこの外観を描いていたとき。
文化庁の芸術家在外研修員として滞在したベネチアで、毎日一枚はスケッチしようと描いていた感覚をふと思い出した。

細部まで練られたデザイン、その細部が積み重なりながら大きな外観の輪郭と呼応する。
建築はこうである、という信念と伝統のモチーフの見事なコラージュ。
スケッチしていく手がコンドルの思考と手の動きの痕跡を感じ始める。

このスケッチ散歩は上手い下手ではなく、重要なのは描く事により、なにを感じて体験したかだ。手がなにに反応し記憶したかなのだ。

最後にみんなが描いた絵を見ながらフィードバックの時間を持つ。
人により、本当に観ているポイントは違うのだということを実感する。(18)
(18)フィードバックで並べたみんなのスケッチ(ITARUS)

例えば、使用人が使ったであろう裏階段の巾木の曲線を描いていた人もいる。とても優しい曲線だ。私は最初気づかなかったので、もう一度見に行き写真を撮った。(19)
(19)階段の巾木の柔らかな曲線(ITARUS)

フィードバックの後、みんなが発見した面白い箇所をもう一度見にいく時間を持ってみた。自分1人では、発見できなかった面白い事が見えてくる。これもスケッチ散歩の面白みのひとつ。


『洋館のハイライトは、階段ホールと食堂ですね。』と、数々の洋館写真を撮ってきた背景画家さんが言う。
なぜなら、そこは一番来賓の目に触れるところだから。(20)
(20)エントランスホール・階段室(ITARUS)


十字架のモチーフを発見した学生もいた。
清泉女子大学はクリスチャンの大学だが、実はこれは島津家の家紋らしい。(21)
(21)エントランスのステンドグラス 島津家の家紋(ITARUS)

暖炉のレンガに文字が。また食堂の暖炉には島津家の家紋の十字架があった。(22)
(22)食堂の暖炉にみえる面白い文様と家紋(ITARUS)


<柔らかい曲線たち>
書斎の真上が夫人室なのだが、その部屋にこもって描いていた人はこの部屋が優しい曲線に溢れているという。(23)
(23)伯爵夫人室の曲線の窓と金色のカーテンボックス(ITARUS)
天井のモールディングに丸く縁どられたライン。天球のイメージだろうか。
暖炉の柔らかい線。また、この部屋のカーテンボックスだけが金色で装飾されている。
K先生の話しでは、皇后が泊まった事があるという。

<職人の意地>
極め付けは、バルコニーの柔らかい曲線に沿った夫人室の曲面ガラスと窓枠だろう。(24)
(24)バルコニーの曲線(曲面)のガラス(ITARUS)

この当時、ガラスを曲線につくりだす技術があったのだろうか?
驚愕する。

工房からこんな近くにあるのに、一度も足を踏み入れたことが無かった丘の上でのひと時。とても有意義な時間を過ごさせていただいた。

春の陽も暮れはじめ、ジョサイア コンドルの建築をあとにする。
最後にバルコニー側からもう一度建物を観る。(25)
(25)旧島津邸バルコニー側(ITARUS)

20173月25日の五反田に下りてくる。
なんだか狐につままれたような、楽園にいたような、、。
そんな至福の時を過ごした。