今回は違った角度からセノグラフィーの原初を考えてみたい。
<ネガティヴハンドが伝えるパフォーマンスの痕跡>
何年か前に、知り合いの映像作家にワークショップを依頼したとき、彼が面白い写真を持ってきた。冒険写真家 石川 直樹さんの写真集にあったこの一枚。
ラスコーの洞窟壁画と同様、人類が大地に残したアートの痕跡の一つ。
通常、私たちはこれらの作品を原初の絵画作品と捉える。
しかし、映像作家の彼はこのネガティヴハンドがどのように作成されたか、その創作過程に想いを巡らせてみましょうという。ドキュメンタリーの発想だ。
作品は出来上がったものだけでなくその制作過程にこそ謎と面白みがある。
そう言われてよく見ると確かに不思議な構図と組み合わせだ。
手形をみると左右が交差しているし大きさが違う。どうも同じ人の手ではない。
そしてこのベースとなっている岩山は人里離れた砂漠との境にある。エアーズロックに象徴されるように巨大な岩は神秘的な力を秘めている。(2)
手形をみると左右が交差しているし大きさが違う。どうも同じ人の手ではない。
<ネガティヴハンドの作り方>
巨大な岩の地肌をキャンバスとして、手を岩にあてる。そこに口に含んだ赤い砂岩を唾液と混ぜ、霧吹き状に口から吐き出し手にかける。スプレーと一緒だ。赤くなった液体に染まった手をどけると、岩にネガとして手形が残るという仕組み。
<誓いの痕跡としのアート>
この制作過程を想像してみよう。
ここからは完全な妄想だ。
例えば、恋人たち。神奈川の出身なので、こんな例になるが江ノ島や平塚の鉄塔がある小山に恋人達が願いを掛けて金網にロックした南京錠が多数ぶら下がっている。やはりその場所は人里離れたしかしそんな遠くない非日常を感じれる場所。
アボリジニーが手形を残したのも同様のシチュエーションではないか。
恋人達はいつもそこを目指す。
いるのは二人だけ。吸い込まれそうな空に星が輝く深夜か東の空が明るくなりはじめた明け方であろうか。愛を誓いあった二人がその誓いの証しとしてなにか痕跡を残す。
冷たい岩にゆっくりと手を置き互いに見つめる。互いの口から二人の交差した手に向けて、大地の色を含んだ唾液をかける。
なんてエロティックな誓いのシーンだろうか。これはもうパフォーミングアートだ。
大地と天空の間にあり、世界と自分達が交わるその一番美しい一瞬を捕まえようと大地に痕跡を残す。
<環境と対話するアート>
そう妄想するとネガティヴハンドの向こうに、言葉だけでは足りない憶いをなんとか形にして残そうとした人々の息づかいが感じられないだろうか。環境を読み解きイメージを素材、質感を伴った形にしてその場に残そうとする行為。アートの原初。ここにもセノグラフィックなアートの発想の片鱗がある。
<美を探求する心>
建築家ルイス・カーンがこんな事を言っている。
『私はつねに、始原、元初を探し求めます。原初を見いだそうと求めるのは私の性格だと思います。私は英国史が好きでその全集をもっています。しかし第1巻しか読まないし、それも最初の3章か4章を読むだけです。もちろん私のただひとつの真の目的は第零巻を読むことにあります。つまりいまだ書かれざるものを読むことにあります。人にこのようなものを探させる心とは何と不思議なものでしょうか。このような(元初の)イメージが心というものの出現を示唆しているのではないでしょうか。人間の最初の感情は美の感情です。(それは美しいということでも、きわめて美しいということでもありません。)まさに美それ自体です。・・・』
『ルイス・カーン建築論集』より
今だ書かれざるものを読もうとする知的好奇心、原初を探そうとする心こそ美を探求する心だと。
ネイティブアメリカン・ナバホ族の詩にはこんなのがある。
『Beauty before me Behind me Below me Above me All around me In beauty, I have spoken. 』
『Native American Wisdom』より
『美が私の前にある、私の後ろにある、私の下に、私の上に。こう話している内に、私は美に囲まれている。』
特殊なことではない。誰もが持っている感覚。なぜかわからない、しかし人はそれに惹かれる。それを意識し探求しようと思う心がわき上がると今度は世界が動きだし、語りだす。
参考文献
石川直樹『NEW DIMENSION』
ルイス・カーン『ルイス・カーン建築論集』
『Native American Wisdom』