2017/03/21

セノグラフィーってなに?<歴史5>

『アリアドネの糸と迷宮 あるいは、コレオグラフィーとセノグラフィーの関係』


<その2>で、神殿と迷宮とコーラ(最初のパフォーミングアートの場)という3つの関係で、セノグラフィーの原初を位置づけたが、今回は迷宮の考察を通して、ミノタウロスを倒し迷宮から帰還したテセウスを導いた『アリアドネの糸』『鶴の舞踏』からコレオグラフィーとセノグラフィーの関係について考えてみたい。

<その1>で、踊り、演じる場=コーラのデザインこそが原初のセノグラフィーであり、その場に現象として現れる身振り=ダンスが、コレイア(輪舞)であり、その振り付けがコレオグラフイーであると書いたように、迷宮とアリアドネの糸にもその関係が当てはめられないだろうか?という仮説だ。

仮説はこうである。”ミノタウルス自体が迷宮だった”のではないか?

迷宮に踏み込むと奥が深すぎてそれこそ迷宮入りしてしまうが、ここはセノグラフィーについて考える場。様々な迷宮の歴史的解釈があるが、ここでは特にパフォーミングアートに関わった迷宮の解釈を探っていきたい。


<アリアドネの糸>
まず、アリアドネの糸について。
こみいったミノタウロスの迷宮神話をもう一度おさらいしよう。

半人半獣のミノタウロスを閉じ込めるための迷宮をつくったのは、造物主ダイダロス。そして迷宮を読み解く方法として糸玉を使えとクレタの王女アリアドネに発案したのもダイダロスとされている。そのアリアドネの糸を使い、迷宮の入り口に片方を結び、ミノタウロスが潜む迷宮の中心へとおもむき、ミノタウロスを倒し帰還したのがギリシャの英雄テセウス。

そして、ダイダロスはアリアドネの為に舞踏の場をつくったともされている。
迷宮ーアリアドネの糸ーアリアドネの為の舞踏の場。全てにダイダロスが関わっている。
演出家のように、、。いやこの場合はセノグラファーのように、だろう。

では、アリアドネの糸が機能する為に迷宮がどのような形態をしていたのか?


<クレタ型迷宮図>
クレタ型迷宮図とはこうだ。(1)
(1)クレタ型迷宮図(Wikipedia)

これは普段私たちが考えるような複雑に交錯する道をもった”迷路”とはちょっと異なり、以下のルールを持っているという。

・通路は交差しない。
・一本道であり、道の選択肢はない。
迷宮内には余さず通路が通され、迷宮を抜けようとすればその内部空間をすべて通るこ
 とになる。
・中心のそばを繰り返し通る。
・中心から脱出する際、行きと同じ道を再び通らなければならない。

確かに普段私たちが考える迷路とは大きく違う。迷宮を通る通路は一筆書きで出来ている。迷いそうにない。アリアドネの糸は必要だったのだろうか?この迷宮を辿るために使用されたアリアドネの糸とはなんであったのか?


<迷宮舞踏説>
迷宮の研究者である和泉 雅人氏が『迷宮表象原理』において、
”迷宮は実体的な構造物ではなく、迷宮とは迷宮図にほかならず、その迷宮図とは迷宮状の舞踏のために描かれたステップ図(舞踏譜)にほかならない。”
という説を支持している。

”その迷宮舞踏説の有力な根拠が、迷宮神話圏において、テセウスがデロス島で自分が凌いで来た迷宮を記憶に呼び起こして、迷宮の周回路をなぞる迷宮舞踏(いわゆる『鶴の舞踏』)を踊ったという物語素が存在することである。さらにChoros(輪舞あるいは舞踏場)の模様が描かれたアキレウスの盾の描写がホメロス中に見られることも重要な根拠の一つとされている。”
『迷宮表象原理』より

また、中島 和歌子氏の『迷宮(Labyrinth)図像群に関する一考察』では以下のような考察もある。
”糸というものについて、以下では舞踏との関係性も紹介しておきたい。
テセウスが迷宮から帰還を果たすくだりは通過儀礼として従来語られているが、ケレーニイは『舞踏化された迷宮』と述べている通り、迷宮を、建造物であるというよりは特定の舞踏の形状であるとみなしている。ケレーニイはホメロスの『イーリアス』の記述などを参照しつつ、綱を使って踊る輪舞の列が迷宮状に方向転換しつつ中心を目指し(死への道)、中心から逆光して戻っていく(再生の道)という鶴舞踏(geranos)を迷宮図像の模倣であるとしたうえで『踊り手たちはいわばアリアドネーの糸を手にしているのだ』と述べている。”
『迷宮(Labyrinth)図像群に関する一考察』より


図像学や神話を研究している人からすると門外漢の私はとんちんかんで申し訳ないが、
セノグラフィーの原初を考える時、どうしても神話や哲学の世界とは切り離せない。
今回も難しい世界に踏み込まざるおえないのだが、この記述に出会ったときちょっと謎が解けた気がした。
ダイダロスが設計した迷宮と舞踏場の接点がアリアドネの糸を介して見いだせるからだ。


<迷宮と舞踏の接点>
さきの和泉氏はこのような舞踏説に依拠するなら、”迷宮は完全に実在性や質量や歴史性の呪縛から解き放たれ、純粋に神話的観念存在へと脱皮することが可能になる。そしてこの観念的存在に最小限の実体を与えられたのが迷宮図である”と考察されるが、
私の勝手なイメージはこうだ。
迷宮は神話的観念ではなく、『舞踏の為のセノグラフィー』ではなかったか?

<ネガとしての迷宮とポジとしてのアリアドネの糸>
迷宮の読み解きを可能にした、あるいはそのルートを浮き彫りにしたのがアリアドネの糸であったとすると、迷宮を地(ネガ)、アリアドネの糸を図(ポジ)と設定することができないか。
舞踏の為の場と演者の関係だ。(2)
(2)クレタ型迷宮図の例(円周の数が通常より一つ少ない)(ITARUS)


この絵は迷宮図のみ。下の絵はその間を通るアリアドネの糸のライン。(3) 
(3)アリアドネの糸のライン(ITARUS)
これが(2)の迷宮のラインをネガとしたときのポジのラインにあたる。
そして次が2つのラインを重ねたもの。(4)
(4)迷宮のライン(ネガ)とアリアドネの糸(ポジ)を重ねた図(ITARUS)

次の回では是非迷宮図の描き方を扱いたいが、この地と図は面白い関係を持っている。
どちらも描くには基準として同じ位置に一つの正方形が必要なのだ。そして円弧の中心は正方形の4つの角とその正方形の上辺の中心から1辺の長さの1/8の長さだけズレたところに中心を持つという不思議な円弧の集まりなのだ。(5)
(5)迷宮図を描く上で必要な下書きとしての円弧のラインの重なりと基準の正方形(ITARUS)

最初に地(ネガ)である迷宮図から描いてみたが、その道であるアリアドネの糸は一本なので、明らかにクレタ型迷宮図に近いものをフリーハンドで描こうとするとこちらの方(アリアドネの糸)が主=ポジになるのだ。


<コーラとしての迷宮>
そうすると、ポジがまだ無い状態のネガである迷宮は、ジャック・デリダが語ったコーラ=「これでもなくあれでもないようにみえ、同時にこれでありかつあれであるようにみえる。」あらゆる概念的同一性を逃れ去る、場なき場とはならないだろうか。(6)
(6)点線で示されるネガとしての迷宮(ITARUS)

迷宮がコーラの一つの表象だとすると神殿vs迷宮という二項対立は、違った位相としての神殿vsコーラ(後の劇場)との関係性と重なってはこないだろうか。


<コレオグラフィーとセノグラフィー>
アリアドネの糸がコレオグラフィー(舞踏譜)であり、テセウスの動きがコレイア(輪舞)にあたる。そのコレオグラフフィー=舞踏譜とテセウスの輪舞により立ち上がってきた表象としての迷宮=コーラこそがセノグラフィーではないか。
ここにセノグラフィーとコレオグラフィーの関係が見いだせる。

鶴の舞踏の為のステップ図が迷宮図ではなく、鶴の舞踏の為の舞踏譜=コレオグラフフィーがアリアドネの糸=ポジであり、迷宮図=ネガがそのセノグラフィーなのだ。
別の言い方をすればアリアドネの糸がつくり出すコレオグラフィーは時間と関わり、そのコレオグラフィーが展開する場(コーラ)に立ち現れる迷宮というセノグラフフィーは空間と関わる。パフォーミングアートには時・空が必要だ。

場なき場=コーラに、瞬間に立ち上がる一様態としての迷宮。
迷宮を読み解きその振り付けのダンスを体験し表現したものしか、ミノタウロスに出会えず、それを克服し帰還することができない。

迷宮という『場なき場』にミノタウロスを召還できるのが、アリアドネの糸というコレオグラフィーを踊ったテセウスのコレイア(輪舞)『鶴のダンス』ではないか。
鶴のダンスを踊る事により、迷宮のラインが立ち上がってくるのだ。
アリアドネの糸というコレオグラフィー(舞踏譜)こそがネガである不可視である迷宮の設計図(セノグラフィー)をあぶり出す。


<ミノタウロス・迷宮・アリアドネの糸・テセウスの行為(鶴の舞踏)>
ミノタウロス。豊穣と破壊の両義性を持ち生と死の両側面に関わる半人半獣のキメラ。この超越的な存在と出会い対話(破壊と再生)する為に、パフォーマーとしてのテセウスに必要だったのが、舞踏譜としてのアリアドネの糸であった。
そして、そのパフォーマンスが演じられる時にのみネガとして立ち上がった、”場なき場”=コーラが迷宮であり、そのパフォーマンス行為=鶴の舞踏こそがミノタウロスを出現せしめたのではないか。

レヴィ・ストロースがいうように、芸術家の一側面であるブリコルール(器用人)は、ものと『語る』だけでなく、ものを使って『語る』。
まさに、ものを使って『語る』ダイダロスが作りだしたこの『もの』こそが、”舞踏場”であり”アリアドネの糸”であり、それにより立ち現れるネガとしての”迷宮”なのではないか。
それによって『もの』語られたのが、ミノタウロスとテセウスの神話なのではないか。

<超越的なるものとの対話を可能にするパフォーミングアート>
舞踏譜であるアリアドネの糸に沿ったテセウスの鶴の舞踏こそが、ミノタウルスへの接近とそこからの帰還を可能とする唯一の方法であった。
それは、身体、知覚を伴ったパフォーミングアートだ。
パフォーミングアートこそが、超越的なるものとの関係を可能にし、迷宮を可視化できるのだ。

参考文献
『迷宮表象原理』和泉 雅人
『迷宮(Labyrinth)図像群に関する一考察』中島 和歌子